竹中直人の若い頃はものまね芸人?内気な少年が大河主演に立つまで

竹中直人の若い頃はものまね芸人?内気な少年が大河主演に立つまで

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竹中直人さんの若い頃といえば、ものまね芸人だったという話を聞いたことがあるかもしれません。

実際には、内気な少年が自主映画とものまねの両方に打ち込んだ末に、テレビの素人枠から世に出た人です。

俳優として知られる前に、素人コメディアンとしてチャンピオンになり、劇団の下積みも経験しています。

この記事では、横浜で過ごした少年時代から、映画監督デビューと大河ドラマ主演にたどり着くまでを順に見ていきます。

竹中直人の若い頃|横浜で映画に夢中だった少年時代

まずは、テレビに出る前の竹中直人さんを見ていきましょう。

  • 映画好きだった横浜の一人息子
  • 内気を変えたものまね
  • 自主映画に打ち込んだ学生時代
  • 笑いながら怒る人が生まれた日
  • 母を亡くして変わった日常

映画好きだった横浜の一人息子

竹中直人さんは1956年3月20日、神奈川県横浜市金沢区の生まれです。

市役所に勤める両親のもとで、一人息子として育ちました。

意外に思われるかもしれませんが、幼いころの竹中直人さんは家で一人遊びをすることを好む内気な性格だったといいます。テレビで見る破天荒な印象とは、ずいぶん違う子供時代です。

その子供を外の世界とつないだのが、両親と一緒に出かけた映画館でした。ここで映画そのものに夢中になり、のちに監督まで務めることになる原点ができています。

先に、若い頃の歩みを一覧にしておきます。

生まれ 1956年3月20日/神奈川県横浜市金沢区
家庭 市役所勤務の両親のもとで一人息子として育つ
中学・高校 関東学院六浦
大学 多摩美術大学美術学部デザイン科(2浪を経て1976年入学)
素人時代 1977年『ぎんざNOW!』の素人コメディアン道場で第19代チャンピオン
劇団 1980年に劇団青年座へ入団
本格デビュー 1983年『ザ・テレビ演芸』でグランドチャンピオン
十八番 「笑いながら怒る人」

好きだったヒーローの趣味も、少し変わっていました。強い正義の味方ではなく、フランケンシュタインの怪物のようなモンスターに惹かれたといいます。強くない、どこか屈折したものへの憧れです。

この感覚は、のちの役の選び方にもつながっていきます。

内気を変えたものまね

転機になったのは、関東学院六浦中学に入学したころでした。

内気な性格をなんとかしたいと考えた竹中直人さんは、ものまねを覚えます。人前で誰かの真似をしてみせるという、いちばん外向きの方法を選んだわけです。

これが当たりました。教室でものまねを披露すると同級生の注目を集め、内気だった少年の立ち位置が変わっていきます。

笑いを取るために芸を身につけたのではなく、自分を変えるために身につけた芸だった、ということですね。

のちに竹中直人さんはものまねでテレビの素人参加番組を勝ち抜いていきますが、その出発点は中学の教室にありました。仕事のために始めたわけではないぶん、レパートリーを増やす動機も自然だったのかもしれません。

得意にしたのは、当時人気を集めていた俳優のものまねでした。松田優作さんの真似は、後年テレビの舞台でも披露しています。

好きな映画俳優をそのまま芸にしていたわけで、映画好きの子供時代とものまねはつながっていた、ということになります。

内気さは消えたのではなく、演じることで別の形に変わっただけとも言えます。

自主映画に打ち込んだ学生時代

高校に進むと、竹中直人さんは自分で映画を撮り始めます。

在学中から自作映画に取り組んでいた、というのは芸人志望の少年としては珍しい経歴です。ものまねで人を笑わせながら、一方でカメラの後ろにも立っていました。

進路も、その延長線上にありました。2浪を経て、1976年に多摩美術大学美術学部デザイン科グラフィックデザイン専攻へ進学します。

大学では「映像演出研究会」に所属し、8ミリ映画の制作に没頭しました。監督から出演まで自分でこなす、いわゆる何でも屋の作り手です。

芸能界を目指して養成所に通ったわけではなく、美大で映像を作っていた学生だった。ここが竹中直人さんの若い頃の、いちばん独特なところかもしれません。

8ミリ映画は、当時の学生にとって数少ない自主制作の手段でした。フィルム代も現像代も自腹で、上映するのは仲間内だけ。それでも撮り続けたということです。

進学したのがデザイン科だった点も見逃せません。絵を描くことが好きだった子供が、そのまま美術の道に進み、そこで映像に出会っています。

俳優が後から映画を撮るのではなく、映画を撮っていた人が俳優になった。順番が逆なんです。

笑いながら怒る人が生まれた日

竹中直人さんの代名詞ともいえる持ちネタが「笑いながら怒る人」です。

このネタが生まれたのも、多摩美術大学の映像演出研究会でした。

竹中直人さんが監督・出演した短編に『首振り地蔵の怪』という作品があります。仲間に見せたところ、作品を馬鹿にされてしまいました。

そこで竹中直人さんが、笑いながら「ふざけんじゃねぇ、コノヤロー」と返したところ、その場が大爆笑になったと伝えられています。

悔しさから出た反射的な一言が、そのままネタになった形です。

このネタは40年以上にわたって披露され続けています。学生時代の一場面が芸人人生の十八番になった例は、そう多くありません。

笑いと怒りという相反する表情を同時に出す。技術としても簡単ではないはずですが、竹中直人さんの場合は演技力の見せどころにもなっています。

内気な少年が身につけたものまねと、この一発ネタ。どちらも「人前でどう見せるか」を考え抜いた末に出てきたものです。

作品を否定された瞬間に生まれたネタで、後に全国に知られる。若い頃の失敗が、そのまま持ち味になったということですね。

母を亡くして変わった日常

明るい話ばかりではありません。

高校を卒業するころ、竹中直人さんは母親を病気で亡くしています。それ以降は、父親との二人暮らしになりました。

一人息子として育った家から、母親がいなくなる。多感な時期に起きた出来事です。

竹中直人さんは、亡くなった母親について取材の場で語ることがあります。時間が経っても触れられる話題として残っているということでしょう。

大学で映画に打ち込み、テレビの素人枠に挑んでいった時期は、この出来事のすぐ後にあたります。

若い頃の竹中直人さんを見るとき、明るいものまね少年という一面だけでは足りません。家庭の事情を抱えながら、それでも人前で笑わせる方を選んだ人でもありました。

竹中直人の若い頃を変えたテレビと舞台の10年

ここからは、素人からプロになるまでの道のりを見ていきます。

  • 素人時代にテレビでチャンピオン
  • 仮装大賞で番組初の不合格
  • 青年座と1983年の本格デビュー
  • 30代で監督デビューと大河主演
  • 竹中直人の若い頃まとめ
  • この記事の情報源

素人時代にテレビでチャンピオン

竹中直人さんが世に出るきっかけは、テレビの素人参加番組でした。

1977年、TBS『ぎんざNOW!』の名物コーナー「素人コメディアン道場」で第19代チャンピオンに輝きます。当時のこのコーナーからは、のちに名前を残す芸人が何人も出ています。

同じ1977年には、日本テレビ『TVジョッキー』の素人参加コーナーでも、ものまね芸でチャンピオンになりました。

まだ大学在学中のことです。

芸能事務所に所属していたわけでも、養成所に通っていたわけでもありません。一般の視聴者として応募し、勝ち抜いていった形です。

1970年代後半は、素人がテレビで勝ち上がる仕組みが機能していた時代でした。オーディション番組や視聴者参加コーナーが各局にあり、そこから世に出た人が何人もいます。

竹中直人さんは、その仕組みをきちんと使い切った側でした。一つの番組で終わらせず、別の番組でも勝っています。

中学で始めたものまねが、10年ほどかけてテレビの舞台まで届いたことになります。

仮装大賞で番組初の不合格

一方で、うまくいかなかった挑戦も残っています。

1979年12月、竹中直人さんは『欽ちゃんの仮装大賞』の第一回に出演しました。持ち込んだのは、松田優作さんのものまねを絡めたドラキュラです。

結果は不合格でした。しかも、番組で初めての不合格だったと伝えられています。

いまでは国民的な番組ですが、その記念すべき第一号が竹中直人さんだったわけです。

素人コメディアン道場で勝ち、TVジョッキーでも勝った人が、別の番組では通用しない。テレビの怖さがそのまま出た出来事でもあります。

仮装大賞は、大がかりな仕掛けや集団芸が評価されやすい番組です。一人でものまねを見せるという竹中直人さんのやり方は、そもそも噛み合わせが良くなかったのかもしれません。

とはいえ、この不合格で歩みが止まったわけではありません。この4年後には、別のオーディション番組で頂点に立っています。

後年、この不合格は本人のエピソードとして語られるようになりました。若い頃の失敗が笑い話になるまで残っているのも、この人らしいところです。

青年座と1983年の本格デビュー

1980年、竹中直人さんは多摩美術大学を卒業し、劇団青年座に入団します。

テレビで注目された素人が、そのまま芸人になる道を選ばず、舞台の劇団に入った。ここも竹中直人さんの経歴で見落とされやすい部分です。

演技の基礎を積む場所を選んだことが、後の俳優業を支えています。

そして1983年、テレビ朝日『ザ・テレビ演芸』のオーディションコーナーでグランドチャンピオンを獲得し、本格的にデビューを果たしました。松竹の公式紹介でも、デビューは1983年と記されています。

素人コメディアン道場のチャンピオンから、6年が経っていました。

1985年には、シティボーイズやいとうせいこうさん、宮沢章夫さんらと「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」を結成します。テレビの笑いと舞台の実験的な表現、その両方に足を置いた時期です。

30代で監督デビューと大河主演

30代に入ると、竹中直人さんの活動は一気に広がります。

1990年に劇団青年座を退団。同じ年に、元アイドル歌手の木之内みどりさんと結婚しました。

翌1991年、『無能の人』で映画監督デビューを果たします。この作品はヴェネツィア国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞し、竹中直人さんはブルーリボン賞の主演男優賞も受けました。

学生時代に8ミリで映画を撮っていた人が、国際映画祭で評価される監督になったことになります。

俳優としての評価も同じ時期に確立しました。1992年公開の『シコふんじゃった。』では日本アカデミー賞の最優秀助演男優賞を受けています。

そして1996年、NHK大河ドラマ『秀吉』で豊臣秀吉役の主演を務めました。平均視聴率30.5パーセント、最高視聴率37.4パーセントという記録が残っています。

同じ1996年には映画『Shall we ダンス?』が公開され、翌1997年には監督作『東京日和』を発表しました。

素人参加番組に応募していた大学生が、20年足らずで大河ドラマの主演に立つ。若い頃の助走が長かったぶん、届いた場所も遠かったということですね。

竹中直人の若い頃まとめ

最後に、この記事で確認できたことを整理します。

  • 竹中直人さんは1956年3月20日、神奈川県横浜市金沢区の生まれ
  • 市役所勤務の両親のもとで一人息子として育ち、幼少期は内気な性格だった
  • 関東学院六浦中学に入学したころ、内気を克服するためにものまねを覚えた
  • 高校在学中から自作映画を撮り始め、2浪を経て多摩美術大学デザイン科へ進学
  • 大学では映像演出研究会に所属し、8ミリ映画の制作に没頭した
  • 十八番の「笑いながら怒る人」は、大学で自作の短編を馬鹿にされた場面から生まれた
  • 1977年に『ぎんざNOW!』の素人コメディアン道場で第19代チャンピオン
  • 同年、『TVジョッキー』でもものまね芸でチャンピオンになった
  • 1979年12月の『欽ちゃんの仮装大賞』第一回では、番組初の不合格になった
  • 1980年に多摩美術大学を卒業し、劇団青年座へ入団
  • 1983年『ザ・テレビ演芸』でグランドチャンピオンを獲得し本格デビュー
  • 1985年に「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」を結成
  • 1991年『無能の人』で映画監督デビュー、1996年に大河ドラマ『秀吉』で主演

竹中直人さんの若い頃をたどると、ものまね芸人という入り口だけでは説明しきれないことが分かります。

内気な少年が自分を変えるために芸を覚え、美大で映画を撮り、劇団で演技を学んだ。その全部が、いまの仕事につながっています。

若い頃に寄り道に見えたものが、ひとつも無駄になっていない経歴なんです。

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