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渡部篤郎さんの若い頃を検索した方は、いまの落ち着いた佇まいからは想像しにくい、二十代の頃の姿が気になっているのではないでしょうか。
渡部篤郎さんは高校を中退し、エキストラから俳優の世界に入った異色の経歴の持ち主です。
デビューから数年で日本アカデミー賞の新人俳優賞と優秀主演男優賞を同時に受け、『ケイゾク』で一気に知られる存在になりました。
この記事では、渡部篤郎さんの若い頃を出演作とともに時系列でたどり、現在に至るまでの変化を整理します。
目次
渡部篤郎の若い頃はどんな俳優だった?デビューからブレイクまで
- デビューのきっかけと下積み時代
- 1990年代前半の出演作と初主演
- 日本アカデミー賞を受けた映画
- ケイゾクで決定づけた存在感
- 若い頃の写真に残る印象
まずは、俳優になるまでの経緯と、名前が知られていくまでの流れを追っていきます。
デビューのきっかけと下積み時代
渡部篤郎さんは1968年5月5日、東京都新宿区に生まれました。本名は渡部篤(わたべ あつし)さんです。
中野区立谷戸小学校から中野区立第九中学校へ進みましたが、その先の高校は中退しています。芸能一家でも演劇部出身でもなく、俳優になるための下地はまったくありませんでした。
高校をやめたあとは、母親が営むバーの手伝いをしたり、肉体労働のアルバイトをしたりして生活していたと語られています。十代の後半をそうやって過ごすなかで、アルバイト先の縁から撮影現場に足を運ぶようになりました。
最初の接点はエキストラでした。
演じたくて飛び込んだのではなく、現場に人が足りないから声がかかった、という入り方です。ここが渡部篤郎さんの若い頃を語るうえでいちばんの特徴で、多くの同世代の俳優のように、オーディションやスカウトから始まったわけではありません。
その後、俳優の丹波哲郎さんが主宰していた演劇学校「丹波道場」に所属します。ここで本格的に演技を学び、ピンク映画への出演を経て、少しずつ商業作品の現場へ移っていきました。
いきなり主役級の役をもらったわけではなく、名前のない役や短い出番を積み重ねた時期があります。学歴も後ろ盾もない状態から始めたぶん、下積みの期間は決して短くありませんでした。
この時期の経験は、のちに渡部篤郎さんが得意とすることになる「感情を大きく出さずに、目線と間で見せる」芝居につながっていきます。台詞で説明せずに立っているだけで空気を変える役者だと評されるようになるのは、この下積みの延長線上にあると言えます。
1990年代前半の出演作と初主演
テレビで名前が出るようになったのは1991年です。テレビ東京のドラマ『青春の門』で、主人公の伊吹信介役に抜擢されました。
エキストラから始まった俳優が、数年で連続ドラマの主人公を任されたことになります。
翌1992年には、フジテレビの『北の国から’92巣立ち』に高木役で出演しました。国民的シリーズに名前を連ねたことで、視聴者の目に触れる機会が一気に増えます。同じ年にはTBSの『平清盛』で平重盛を演じ、時代劇にも足を踏み入れました。
1993年にはNHK大河ドラマ『琉球の風』に楊啓山役で出演しています。大河ドラマは以降も『毛利元就』『北条時宗』と続き、若い頃から歴史ものに強い俳優という印象が定着していきました。
映画では1994年の『レッスン〜Lesson』で山口努を演じています。二十代の半ばにさしかかる時期に、テレビと映画の両方で仕事が途切れなくなっていました。
この頃の渡部篤郎さんは、いまのような渋さよりも、目鼻立ちのはっきりした爽やかな青年という見え方をしていたと振り返られています。作品ごとに髪型も雰囲気も変えていたため、当時のドラマを並べて見ると同一人物とは思えない、という感想も少なくありません。
出演のジャンルにも偏りがありませんでした。現代劇の『北の国から』、時代劇の『平清盛』、大河の『琉球の風』と、続けて別の畑を渡っています。若手のうちにこれだけ幅を振れる俳優は多くなく、どこかに固定されない使われ方をしていたことが分かります。
一方で、この時期の役はいずれも主人公を支える側でした。『青春の門』で主演を経験したあとに、あえて脇に回る仕事が続いたことになります。結果として、短い出番でも印象を残す技術がこの数年で磨かれました。
ただし、この段階ではまだ「代表作」と呼べる作品はありませんでした。名前と顔は知られつつあるけれど、何の人と聞かれると答えにくい。そんな位置にいたのが1990年代前半です。
日本アカデミー賞を受けた映画
流れが変わったのは1995年の映画『静かな生活』でした。
渡部篤郎さんが演じたのは、知的障害のある青年イーヨーです。台詞で心情を説明できない役柄で、表情と身体の動きだけで人物を成立させる必要がありました。
この演技が高く評価され、翌1996年の第19回日本アカデミー賞で、新人俳優賞と優秀主演男優賞を同時に受賞しています。
新人賞と主演男優賞を同じ年に受けるのは珍しく、若い頃の渡部篤郎さんにとって決定的な出来事になりました。顔立ちで注目されていた俳優が、演技力で評価される俳優へと見られ方が変わったのがこのタイミングです。
続く1996年には、岩井俊二監督の映画『スワロウテイル』にラン(狼朗)役で出演します。独特の世界観を持つ作品で、渡部篤郎さんの陰のある佇まいが強い印象を残しました。
同じ年、フジテレビの時代劇『剣客商売』では秋山大治郎を演じています。第2期まで続く役どころで、若手の剣客として殺陣にも取り組みました。
そして1997年、日本テレビの『ストーカー 逃げきれぬ愛』で三枝辰也という難役を務めます。平均視聴率13.5パーセントという数字を残し、第12回ザテレビジョンドラマアカデミー賞の助演男優賞を受賞しました。
この作品が連続ドラマでの評価を決定づけ、以降の出演オファーが一気に増えていきます。1998年にはTBSの『ラブ・アゲイン』で大垣裕太役として主演を務め、同じ局の『なにさまっ!』では岡野明を演じました。映画でも『緑の街』で主演の夏目草介、『JOKER 厄病神』のヒロシ、『落下する夕方』の薮内健吾と、一年で三本に出ています。
1995年から1998年までのわずか四年間で、映画賞・テレビ賞の両方を受け、連続ドラマの主演までたどり着いたことになります。下積みが長かったぶん、評価がつき始めてからの動きは速いものでした。
この時期に共通しているのは、明るくまっすぐな役がほとんど無いことです。障害のある青年、追い詰められる男、影を抱えた恋人と、屈折した人物ばかりが並びます。若い頃の渡部篤郎さんに「暗い」「ミステリアス」という印象が結びついたのは、この選び方の結果でもありました。
ケイゾクで決定づけた存在感
若い頃の渡部篤郎さんを語るうえで外せないのが、1999年のTBSドラマ『ケイゾク』です。
演じたのは真山徹という刑事でした。無精ひげにくたびれたコートという風貌で、何を考えているのか読めない。それでいて要所で異様な鋭さを見せる、という役どころです。
この真山徹が、渡部篤郎さんの代名詞になりました。
放送から四半世紀以上が経ったいまでも、渡部篤郎さんの名前で検索すると『ケイゾク』が候補に出てくるほど、結びつきが強い作品です。
同じ1999年には日本テレビの『ラビリンス』で野崎悠一郎役として主演も務めました。この年、第20回ザテレビジョンドラマアカデミー賞の助演男優賞を『ケイゾク』で、第21回の主演男優賞を『ラビリンス』で受けています。ひとつの年に助演と主演の両方で賞を受けたことになります。
さらに同年、映画『heat after dark』では主演に加えて製作にも名前を連ねました。演じるだけでなく作品づくりそのものに関わり始めたのが、この時期です。
翌2000年には、TBSの『ビューティフルライフ』で町田正夫を演じています。社会現象になった作品で、主役ではないポジションながら第24回ドラマアカデミー賞の助演男優賞を受賞しました。同じ年には日本テレビの『永遠の仔』で主演を務め、映画版の『ケイゾク/映画 Beautiful Dreamer』でも真山徹に戻っています。
1999年から2000年にかけての二年間は、出演したほとんどの作品で評価を受けた期間でした。若い頃のピークをどこに置くかと聞かれれば、多くの人がこの時期を挙げるはずです。
若い頃の写真に残る印象
当時の写真を並べると、いまとの違いがはっきり分かります。
十代から二十代の初めにかけては、輪郭がすっきりしていて、朗らかに笑う表情の写真が多く残っています。素朴な好青年という表現が使われることも多い時期です。
二十代の半ばを過ぎると、雰囲気が大きく変わります。『静かな生活』『スワロウテイル』『ケイゾク』と続くなかで、笑わない役、感情を出さない役が増えたためです。写真でも目線を外していたり、口角を上げていなかったりするものが増え、ミステリアスという評され方が定着しました。
三十代に入ると、そこにさらに色気が加わります。『ケイゾク』の真山徹について、いまも「あの色気がすごかった」と語られるのはこの時期の見え方です。
素朴な青年、陰のある役者、ちょい悪な色気という三段階が、十年ほどの間に連続して起きています。
つまり渡部篤郎さんの若い頃は、ひとつの顔で語れません。若い頃の画像を検索したときに印象がばらつくのは、このためです。
もうひとつ、当時の写真で目を引くのが髪型の振れ幅です。『青春の門』の頃の短く整えた髪から、『スワロウテイル』の伸ばした髪、『ケイゾク』の無造作な髪まで、作品ごとにまったく違います。役に合わせて外見を作り込む俳優だったため、同じ年の写真でも別人のように見えることがありました。
服装も同様で、時代劇の装束から、くたびれたコート、きちんとしたスーツまで幅があります。写真だけを並べて「これが同じ人物」と言われて驚く、という反応が出るのはそのためです。
なお、若い頃の写真が広く出回っている背景には、当時の作品が繰り返し配信・再放送されていることがあります。『ケイゾク』『ビューティフルライフ』『北の国から』といった作品はいまも視聴できるため、リアルタイムで観ていない世代が後から若い頃の姿を知る流れが続いています。
渡部篤郎の若い頃と現在を比べて見えてくるもの
- 2000年代に主演を重ねた時期
- 大河ドラマ三作で演じた役
- 現在の役柄と佇まいの変化
- 私生活の変化と俳優としての厚み
- 渡部篤郎の若い頃と現在についてまとめ
ここからは、若い頃のあとにどう歩みを変えてきたのかを見ていきます。
2000年代に主演を重ねた時期
2000年に入ると、渡部篤郎さんの立ち位置は明確に変わります。
同年のTBS『百年の物語 第3夜 Only Love』で八代進次を演じ、フジテレビの『三億円事件』にも出演しました。前年からの評価を受けて、大型企画に呼ばれる俳優になっていた時期です。
2001年にはTBSの『恋がしたい恋がしたい恋がしたい』で赤井涼介役の主演を務め、同じ年に同局の『明るいほうへ』では桐原稲彦を演じています。映画でも『狗神 INUGAMI』の奴田原晃、『大河の一滴』の榎本昌治と、性質の異なる役が続きました。
2002年のTBS『First Love』では藤堂直役で主演、同じ年の『愛なんていらねえよ、夏』では白鳥レイジ役で主演を務めています。翌2003年には日本テレビの『幸福の王子』に与田良介役で出演し、TBSの『恋文』では竹原将一役の主演です。
2001年から2003年までのわずか三年間で、連続ドラマの主演が四本。若い頃に積み上げた評価が、そのまま主演のオファーに変わっていったことが分かります。
1990年代が「印象的な脇を務めて評価される」時期だったのに対し、2000年代前半は「作品の中心に立つ」時期でした。同じ俳優でも、求められる役割がはっきり変わっています。
この頃には、演じるだけでなく作品づくりの側にも関わっていました。1999年の映画『heat after dark』で主演と製作を兼ねたのがその始まりで、のちにはミュージックビデオの監督も手がけています。エキストラから現場に入り、裏側を見ながら育った経歴を考えると、自然な広がり方だったのかもしれません。
その後も『外事警察』のようなシリアスな作品で存在感を発揮し、近年では『マスカレード』シリーズ、『シグナル』、『ルパンの娘』などに出演してきました。二十代の頃から三十年以上、途切れることなく現場に立ち続けています。
大河ドラマ三作で演じた役
若い頃の渡部篤郎さんを語るうえで見落とされがちなのが、NHK大河ドラマへの出演です。
最初は1993年の『琉球の風』で、楊啓山という役でした。舞台が琉球という異色の大河で、まだ二十代半ばの出演になります。
二度目は1997年の『毛利元就』で、毛利興元を演じました。主人公・毛利元就の兄にあたる人物で、家督を継ぎながら早世する役どころです。同じ年に『ストーカー 逃げきれぬ愛』で評価を受けており、時代劇と現代劇の両方で名前が挙がる年になりました。
三度目が2001年の『北条時宗』で、北条時輔役です。こちらも主人公の兄という立場で、正室の子ではないという出自を抱えたまま、弟と対峙していく難しい役でした。
三作のうち二作が「主人公の兄」という共通点を持っています。
物語の中心ではないけれど、主人公の生き方を映す鏡になる立場です。感情を大きく出さずに屈折を見せる芝居が求められる役で、渡部篤郎さんの持ち味と噛み合っていました。
時代劇では、ほかにもフジテレビの『剣客商売』で秋山大治郎を第1期・第2期にわたって演じています。若い剣客として殺陣に取り組んだ経験は、その後の時代物での立ち姿につながっていきました。
三作はそれぞれ十年近く間隔が空いています。1993年は名前が知られ始めた頃、1997年は評価が固まった頃、2001年は主演を任される立場になった頃です。同じ枠に呼ばれながら、そのたびに立ち位置が上がっていったことが分かります。
大河ドラマに三度呼ばれる俳優は多くありません。若い頃の渡部篤郎さんが、現代劇のミステリアスな役だけで評価されていたわけではないことが、この三作から分かります。
現在の役柄と佇まいの変化
若い頃と現在で、最も分かりやすく変わったのは髪です。
近年の渡部篤郎さんはグレーヘアで、それが上品で洗練された印象につながっていると評されています。
無理に若く見せようとせず、そのまま年齢を重ねた見た目を受け入れている点が好意的に受け取られているようです。
表情も変わりました。若い頃の写真に多かった「何を考えているか分からない」表情ではなく、余裕のある落ち着いた表情が増えています。一方で、目の奥にある鋭さや芯の強さは変わらないという見方もあり、そこが若い頃からのファンをつなぎとめている部分です。
役柄も変化しています。二十代から三十代にかけては、危うさや影を抱えた男を演じることが多くありました。近年は組織の上に立つ人物や、主人公を導く立場の役が増えています。
同じ俳優が、見られ方の変化に合わせて役の位置を移してきた、という言い方ができます。若い頃の作品と近年の作品を続けて観ると、演技の質そのものはあまり変わっていないのに、受ける印象がまるで違うのはそのためです。
分かりやすいのが刑事役の変化です。『ケイゾク』の真山徹は、組織のなかで浮いている一匹狼でした。近年の作品で刑事や捜査関係者を演じるときは、部下を抱えて判断を下す側に立っていることが多くなっています。同じジャンルの役でも、置かれる位置が入れ替わりました。
もうひとつ変わったのが、メディアでの見え方です。若い頃はインタビューでも多くを語らない印象が強く、それがミステリアスという評価につながっていました。近年はバラエティ番組やトーク番組に出て、家庭のことを笑いながら話す場面もあります。
こうした露出の変化があっても、演技のときに戻る「余計なことをしない芝居」は変わっていません。喋る渡部篤郎さんを知ってから若い頃の作品を観ると、そのギャップに驚くという声が出るのはこのためです。
私生活の変化と俳優としての厚み
私生活の動きも、若い頃と現在を分ける要素です。
渡部篤郎さんは1993年にタレントのRIKACOさんと結婚しました。
当時のRIKACOさんはすでに知名度のあるタレントで、この結婚によって渡部篤郎さんの名前も広く知られるようになります。
二人の間には男の子が二人生まれました。長男は1994年生まれで、現在は脚本家として活動しています。次男は1998年生まれで、モデルとして活動しています。
その後、2005年12月に離婚が成立しました。若い頃の渡部篤郎さんを語るとき、この結婚と離婚を含めて振り返られることが多いのは、活動のピークと重なる時期だったためです。
2016年6月には一般女性と再婚しています。相手は芸能活動をしていない方なので、詳細は公表されていません。近年のバラエティ番組では家庭の話をする場面もあり、若い頃のミステリアスな印象とは違う一面が見られるようになりました。
息子二人がそれぞれ表現の仕事に進んでいるのも、この家族ならではの流れです。長男は書く側、次男は見せる側と、父親とは違う入り口を選びました。エキストラから始めた父親と、生まれたときから芸能の環境が身近にあった息子たちとでは、スタート地点がまるで違います。
演じる役に父親や上司といった立場が増えてきたことと、実生活で家族を持って年月を重ねてきたことは、無関係ではないはずです。若い頃の鋭さに、実感の裏づけが加わったのが現在の渡部篤郎さんだと言えます。
若い頃の渡部篤郎さんが「何を抱えているか分からない男」を演じて評価されたのに対し、いまは「抱えてきたものが見える男」を演じられる。三十年以上現場に立ち続けてきた俳優にしか出せない厚みが、そこにあります。
渡部篤郎の若い頃と現在についてまとめ
- 1968年5月5日生まれ、東京都新宿区出身。本名は渡部篤
- 高校中退後、アルバイト先の縁でエキストラとして現場へ。丹波哲郎主宰の「丹波道場」で演技を学んだ
- 1991年『青春の門』で連続ドラマ初主演。1992年『北の国から’92巣立ち』などで顔が知られる
- 1995年の映画『静かな生活』で、翌年の日本アカデミー賞・新人俳優賞と優秀主演男優賞をダブル受賞
- 1997年『ストーカー 逃げきれぬ愛』で助演男優賞。1999年『ケイゾク』の真山徹役が代表作に
- 1999年から2000年にかけてドラマアカデミー賞を三度受賞し、若い頃のピークを迎えた
- 2000年代前半は『愛なんていらねえよ、夏』『恋文』などで主演を重ねた
- 1999年の『heat after dark』で製作にも参加し、ミュージックビデオの監督も手がけた
- 現在はグレーヘアで、若い頃のミステリアスな印象から落ち着いた貫禄のある佇まいへ変化した
- 1993年にRIKACOさんと結婚し2005年に離婚。息子二人はそれぞれ脚本家とモデルとして活動。2016年に一般女性と再婚
若い頃の渡部篤郎さんは、素朴な青年から陰のある役者へ、そして色気のある存在へと、十年ほどで見え方を三度変えています。写真を検索して印象がそろわないのは、本人が変わり続けてきた証拠でもあります。
そのうえで、目線と間で見せるという芝居の芯は、デビューの頃から今日まで変わっていません。若い頃の作品をいま観返しても古びて見えないのは、流行りの演技ではなく、その芯で立っていたからでしょう。

