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加賀まりこさんの若い頃の写真を見て、そのかわいさに驚いた方は多いと思います。
デビューは1960年。高校に通いながら、路上でスカウトされたのがきっかけでした。
ただ、この人を「かわいい」の一言で片づけると、いちばん面白い部分が抜け落ちます。
この記事では、若い頃の加賀まりこさんがどんな存在だったのかを、経歴と実際のエピソードから見ていきます。
目次
加賀まりこの若い頃がかわいいと言われる理由
まずは、若い頃の加賀まりこさんがどんな人だったのかから見ていきましょう。
- 路上でスカウトされた高校時代
- 芸名は写真家が付けた
- 小悪魔的女優と呼ばれた存在感
- 代表作に残る若い頃の顔
路上でスカウトされた高校時代
加賀まりこさんが芸能界に入ったのは1960年、まだ高校に通っていた頃でした。
きっかけは街でのスカウトです。それも、声をかけたのが普通の関係者ではありませんでした。
声をかけたのは、映画監督の篠田正浩さんと、歌人で劇作家の寺山修司さんでした。
のちに日本映画史に名を残すことになる監督と、演劇や短歌で時代を動かすことになる表現者。その二人が街で見かけて足を止めた、という話です。
先に、若い頃の基本情報を一覧にしておきます。
| 生年月日 | 1943年12月11日 |
| 出身地 | 東京都神田区小川町(現・千代田区神田小川町) |
| 身長 | 156cm |
| 血液型 | O型 |
| 出身校 | 千代田区一橋中学校、明星学園高等学校 |
| デビュー | 1960年、フジテレビ系ドラマ「東京タワーは知っている」 |
| 映画デビュー | 1962年「涙を、獅子のたて髪に」(松竹) |
| 父 | 大映プロデューサーの加賀四郎 |
| 母 | 神田小町と呼ばれた評判の美女 |
デビュー作はフジテレビ系のドラマ「東京タワーは知っている」でした。そして1962年に松竹と契約し、映画「涙を、獅子のたて髪に」で映画デビューを果たします。
10代でスクリーンに立ったわけですが、当時の日本映画界には若手女優がすでに大勢いました。その中で頭ひとつ抜けたのは、単に顔立ちが整っていたからではありません。
写真に残る若い頃の加賀まりこさんは、笑っていない写真が多いのが特徴です。カメラをまっすぐ見て、口元を結んでいる。愛嬌を振りまくタイプではなかったことが、写真からも伝わってきます。
1960年といえば、テレビがようやく家庭に広がり始めた頃です。映画はまだ娯楽の中心にあり、スクリーンに映る女優は本物の憧れの対象でした。その時代に10代でデビューしたということの意味は、いまの感覚では測りきれません。
かわいいと言われる一方で、どこか近寄りがたい。その両方を10代で持っていたことが、この人の出発点でした。そしてこの二面性は、キャリアが進んでも消えませんでした。
芸名は写真家が付けた
「加賀まりこ」という名前は本名ではありません。芸名です。
そして、その名付け親も少し変わっています。付けたのは写真家の秋山庄太郎さんでした。
芸名「加賀まりこ」を命名したのは、写真家の秋山庄太郎さんです。
秋山庄太郎さんといえば、女優のポートレートや花の写真で知られた人物です。数え切れないほどの女性を撮ってきた写真家が、この10代の少女に名前を贈った。それだけで、当時どう見られていたかが分かります。
「加賀」は父方の姓から来ています。父は大映のプロデューサーだった加賀四郎さん。兄も大映と松竹でプロデューサーを務めた加賀祥夫さんで、祖父は元衆議院議員の加賀卯之吉さんという家系でした。
つまり映画の世界に近い家に生まれ育っています。ただし、親のコネで女優になったという流れではありません。街でスカウトされ、写真家に名前を付けられ、その後に契約が決まっていく。順序としては、外から見つけられた形です。
とはいえ、家に映画の空気があったことは無関係ではないでしょう。撮影所の仕事を間近で見て育った子供が、いきなりスクリーンに立つことになる。まったく未知の世界に放り込まれたわけではなかったはずです。
もう一つ、この人の顔立ちを語るうえで外せないのが母親の存在です。加賀まりこさんは自身の母について、「神田小町」と呼ばれた評判の美女だったと語っています。
生まれた土地は東京の神田小川町。下町の風情が残る場所で、そこで美人として知られていた母がいた。若い頃の加賀まりこさんのかわいさには、しっかり出どころがあったことになります。
学校は千代田区の一橋中学校から、明星学園高等学校へ進みました。スカウトされたのはこの高校に在学していた時期です。学生生活の途中で、いきなり撮影所の世界に足を踏み入れたことになります。
芸名を与えられ、契約が決まり、スクリーンに立つ。その一連のことが10代のうちに起きました。準備期間らしい準備期間がないまま始まったキャリアです。
小悪魔的女優と呼ばれた存在感
若い頃の加賀まりこさんを表す言葉として、いまも使われ続けているのが「小悪魔的女優」です。
現在の記事でもこの呼び名が出てきます。60年以上前に付いた形容が、いまだに更新されずに使われているわけです。
「小悪魔的女優」という呼び名は、いまも加賀まりこさんの紹介に使われ続けています。
この言葉が指しているのは、単なる愛らしさではありません。かわいい顔をしているのに、思ったことをそのまま口にする。周りに合わせない。そういう振る舞いが、当時の女優としては珍しかったのです。
1960年代の日本で、若い女優に求められたのは慎ましさでした。清純派という言葉が生きていた時代です。その空気の中で、加賀まりこさんははっきりものを言う人として知られていきました。
かわいい容姿と、はっきりした物言い。この組み合わせが「小悪魔」という表現を呼び込んだのでしょう。褒め言葉なのか、少し困った人という意味なのか、微妙なところを含んだ呼び名です。
そして重要なのは、この評価が本人にとって不利に働かなかったことです。むしろ加賀まりこさんは、その立ち位置のまま長く活動を続けました。若い頃に付いたイメージを、演技で裏切り続けてきたとも言えます。
呼び名というのは、たいてい時代とともに消えていきます。同じ頃に付けられた形容で、いまも現役で使われているものはそう多くありません。60年以上残っているということは、それだけ的を射た言葉だったのでしょう。
同世代の女優と並べてみると、その違いがよく分かります。当時のスターの多くは、笑顔の宣材写真で親しみやすさを打ち出していました。加賀まりこさんの写真には、そういう作られた愛想があまり見当たりません。
いま若い頃の写真を見て「かわいい」と感じる人が多いのは、たぶんそこに理由があります。ただ整った顔が写っているのではなく、何かを思っている顔が写っている。だから60年経っても目に留まるのだと思います。
代表作に残る若い頃の顔
若い頃の加賀まりこさんを知るなら、やはり作品を見るのがいちばん確かです。
代表作としてまず挙がるのが、1964年の映画「月曜日のユカ」でしょう。検索の候補にも「加賀まりこ 月曜日のユカ」という組み合わせが並んでいて、この作品が若い頃の代表として認識されていることが分かります。
「月曜日のユカ」は、若い頃の加賀まりこさんを語るうえで欠かせない一本です。
その後も出演は続きます。「美しさと哀しみと」といった文芸作品にも名を連ね、1980年代に入ると「泥の河」「陽炎座」「麻雀放浪記」といった代表作が並びました。
若い頃の役柄には、奔放な女性が多く含まれます。当時の女優としては珍しい振れ幅を任されていたことになります。清純な役ばかりを演じていた人ではありません。監督たちが求めたのは、素直さよりも、画面の中で何を考えているか分からない不穏さのほうだったのでしょう。
そして評価も付いてきました。1968年に紀伊國屋演劇賞個人賞、1981年に「夕暮まで」でブルーリボン賞助演女優賞、翌年には「泥の河」「陽炎座」でキネマ旬報ベスト・テン助演女優賞を受賞しています。
さらに2013年には、毎日映画コンクールの田中絹代賞も受けました。長く活躍した女優に贈られる賞です。田中絹代という名前を冠した賞を受けるということ自体が、日本映画の系譜の中に位置づけられたことを意味します。
舞台の仕事も早くから手がけています。1968年の紀伊國屋演劇賞は、映画やテレビではなく演劇に対する評価です。20代のうちに舞台で認められていたことになります。
若い頃のかわいさで話題になった人が、そのまま実力で評価される側に移っていった。写真だけを見ていると分かりませんが、この人の若い頃はキャリアの序章にすぎませんでした。
いま検索して出てくる若い頃の写真は、その序章の一部を切り取ったものです。写真の先に何十年分の仕事が続いていることを知ると、同じ写真の見え方も少し変わってきます。
加賀まりこの若い頃を語るうえで欠かせない出来事
顔立ちの話だけでは終わらないのが、この人の若い頃です。周辺のエピソードを見ていきます。
- 川端康成に口説かれた過去
- 石坂浩二との交際
- 後の世代に届いている顔
- いまも現役という事実
- 加賀まりこの若い頃とかわいさについてまとめ
川端康成に口説かれた過去
若い頃の加賀まりこさんをめぐるエピソードで、群を抜いて驚くのがこれです。
20代の頃、あの川端康成さんに口説かれたと本人が明かしています。
加賀まりこさんは、20代のころに大文豪の川端康成さんから口説かれた過去を告白しています。
川端康成といえば、日本人で初めてノーベル文学賞を受賞した作家です。「伊豆の踊子」「雪国」を書いた人物が、当時20代だった若い女優に言葉をかけたことになります。
この話が示しているのは、若い頃の加賀まりこさんが「かわいい女優」という枠に収まっていなかったということでしょう。文学の世界の頂点にいた人物が関心を持つような存在感が、10代から20代の時期にすでにあったわけです。
同時に、この話を本人が語っているという点も見逃せません。相手が誰であれ言葉にしてしまう。この率直さこそが「小悪魔的女優」と呼ばれた中身なのだと思います。
当時の芸能界で、大御所との出来事を口にするのは簡単ではなかったはずです。それでも語る。若い頃の写真から受ける印象とは違う、芯の強さが見えてきます。
川端康成が亡くなったのは1972年です。つまりこの出来事は、それより前の時期ということになります。加賀まりこさんが20代だった1960年代、日本文学が世界的な評価を受けていく時期と重なります。
文学史の教科書に出てくる人物と、スクリーンの中の若い女優。まったく別の世界にいるように見える二人が、実際には同じ時代の同じ場所にいた。そのことが実感として伝わってくるエピソードです。
当時の芸能界と文壇は、いまよりずっと距離が近かったのだと思います。作家が映画の原作を書き、その現場に顔を出す。そういう交わりの中で生まれた出来事なのでしょう。
なお、こうしたエピソードは本人が公の場で語ったものだけを扱っています。若い頃の恋愛遍歴として名前が並べられている記事もありますが、根拠のはっきりしないものはここでは触れません。
石坂浩二との交際
もう一つ、当時を語るうえで欠かせないのが石坂浩二さんとの関係です。
こちらは石坂浩二さん本人がテレビ番組で語っています。加賀まりこさんとの交際について、赤裸々に振り返る場面がありました。
石坂浩二さん自身が、加賀まりこさんとの交際について番組で明かしています。
本人ではなく相手側から語られたという点で、この話は他の噂とは性質が違います。名前だけが一人歩きしているのではなく、当事者の口から出た話だということです。
二人はのちにドラマ「やすらぎの郷」でも共演しています。若い頃に交際していた二人が、何十年も経ってから同じ作品に立つ。芸能界の長い時間の流れを感じさせる話です。
しかも「やすらぎの郷」は、俳優たちの余生を描いた作品でした。かつての恋人同士が、そういう設定の中で再び顔を合わせる。作り手が意識していたかどうかは分かりませんが、なかなか起きない巡り合わせです。
若い頃の加賀まりこさんの周りには、常にこうした話題がありました。相手が一流の作家であり、人気俳優である。それだけの存在だったということでしょう。
ただ、こうした話の並べ方には注意も必要です。若い頃の女優を語るとき、恋愛の話ばかりが前に出てしまうことがあります。加賀まりこさんの場合、演技の評価が後からしっかり付いてきているので、そこだけで語るのは実像を外します。
実際、加賀まりこさんが映画賞を受け始めるのは30代後半からです。若い頃の話題性と、実力による評価の時期がずれている。この順序を押さえておくと、この人の歩みが分かりやすくなります。
若い頃の写真だけを見ていると、そこがゴールのように錯覚してしまいます。実際にはその後に長い上り坂があって、賞を重ねるのはずっと先の話でした。
私生活の面でも、この時期は決して平坦ではありませんでした。1972年には未婚のまま出産した娘を、生後7時間で亡くしています。表に見える華やかさと、その裏で起きていたことの落差も、この人の若い頃を語るうえでは押さえておきたい部分です。
後の世代に届いている顔
加賀まりこさんの顔が、後の世代にどう届いているのかも見ておきましょう。
若い世代にとって、加賀まりこさんといえば「花より男子」シリーズかもしれません。道明寺楓役として、主人公の前に立ちはだかる母親を演じました。
「花より男子」の道明寺楓役は、若い世代にとっての加賀まりこさんの入り口になっています。
原作の人気ドラマで、圧倒的な存在感を放つ役どころです。この役で加賀まりこさんを知った人が、あとから若い頃の写真を見て驚く。「加賀まりこ 若い頃 かわいい」という検索が生まれる流れの一つが、ここにあります。
ドラマではほかにも「5→9〜私に恋したお坊さん〜」「澪つくし」「私の青空」などに出演しています。世代ごとに違う入り口があるのが、長く活動してきた俳優の強みでしょう。
「澪つくし」はNHKの連続テレビ小説、「私の青空」も同じく朝の連続ドラマです。毎朝流れる作品に出ていた時期があることも、幅広い世代に顔が知られている理由になっています。
若い頃の写真が話題になり続けるのは、いまも画面で見かける人だからです。過去の人になっていたら、そもそも比べる対象が生まれません。
世代ごとに入り口が違うということは、同じ人物について違う印象を持った人が並存しているということでもあります。映画館で「月曜日のユカ」を観た世代と、テレビで道明寺楓を観た世代では、加賀まりこさんという名前から思い浮かべるものがまるで違うはずです。
その両方が同じ一人だと気づいたとき、若い頃の写真を探したくなる。「加賀まりこ 若い頃 かわいい」という検索の多くは、たぶんそういう瞬間から生まれています。ドラマで見た強い母親の若い日を知りたい、という順番です。
なお、顔立ちの変化について取り沙汰する記事もありますが、この記事では触れません。本人が説明していないことを外から断定するのは、この人の歩みを追ううえで必要な作業ではないからです。
いまも現役という事実
若い頃の話をしてきましたが、加賀まりこさんは過去の人ではありません。
2021年には、映画「梅切らぬバカ」で54年ぶりの主演を務めました。自閉症の息子を持つ母親を演じた作品で、ロングランのヒットになっています。
54年ぶりの映画主演という記録は、長く走り続けてきた人にしか作れないものです。
デビューが1960年で、主演作が2021年。60年以上のキャリアの中に、この節目があります。
近年もテレビ出演は続いていて、60年来の親友である冨士眞奈美さんとトーク番組に出た際には、二人の掛け合いが話題になりました。長く付き合ってきた友人と並んでも、変わらない物言いをする人です。
60年来の親友という関係も、若い頃からの続きです。デビューしたのが1960年ですから、キャリアの最初期に出会った相手と、いまも並んで番組に出ている。若い頃の話が過去で終わっていないというのは、こういうところにも表れています。
出演予定も途切れていません。2026年10月配信のドラマ「おいしいのつくりかた」にも名を連ねています。デビューから60年以上経っても、新作の出演情報が更新され続けている俳優です。
「梅切らぬバカ」は、年老いた母と自閉症のある息子の日常を描いた作品です。派手な見せ場のない映画で、加賀まりこさんは軽口を叩きながら息子の世話をする母親を演じました。若い頃の華やかな役柄とはまったく違う役どころです。
私生活では、TBSの演出家である清弘誠さんと20年以上の事実婚関係にあります。入籍はしていません。夫婦別姓の制度を支持する立場も示していて、若い頃から変わらない物言いの人だということが、こうした選択にも表れています。
若い頃の写真を探して検索した人が、その先で知ることになるのは「この人はまだ現役だ」という事実でしょう。かわいかった過去ではなく、続いている現在がある。それがこの人の面白さだと思います。
加賀まりこの若い頃とかわいさについてまとめ
加賀まりこさんの若い頃について整理します。
- 1943年12月11日生まれ、東京都神田区小川町(現・千代田区神田小川町)の出身
- 1960年、高校在学中に映画監督の篠田正浩さんと寺山修司さんに路上でスカウトされてデビュー
- デビュー作はフジテレビ系ドラマ「東京タワーは知っている」。1962年に松竹と契約し映画デビュー
- 芸名「加賀まりこ」は写真家の秋山庄太郎さんが命名した
- 父は大映のプロデューサー・加賀四郎さん、兄もプロデューサーの加賀祥夫さん、祖父は元衆議院議員
- 母は「神田小町」と呼ばれた評判の美女だったと本人が語っている
- 若い頃から「小悪魔的女優」と呼ばれ、その呼び名はいまも使われている
- 代表作は映画「月曜日のユカ」「泥の河」「陽炎座」「麻雀放浪記」など
- 20代のころ、大文豪の川端康成さんに口説かれた過去を本人が告白している
- 石坂浩二さんとの交際は、石坂さん本人が番組で語っている
- ブルーリボン賞助演女優賞、キネマ旬報助演女優賞、毎日映画コンクール田中絹代賞などを受賞
- 若い世代には「花より男子」の道明寺楓役として知られている
- 2021年の映画「梅切らぬバカ」で54年ぶりの主演を務め、現在も出演が続いている
若い頃の写真がいまも探されるのは、単に顔が整っていたからではないと思います。写真の中の加賀まりこさんは、たいてい何かを考えている顔をしています。
10代で街でスカウトされ、写真家に名前をもらい、文豪に口説かれ、そして賞を重ねていった。その全部が同じ人の話です。
「かわいい」から始まった話が、こんなに遠くまで続いている。それが加賀まりこさんの若い頃を追いかける面白さだと思います。
写真は当時の一瞬しか写しません。その一瞬の前後に何があったのかを知ると、同じ一枚がまるで違って見えてきます。若い頃を調べにきた方には、ぜひ作品のほうも見てみてほしいところです。

