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東ちづるさんの若い頃を調べていくと、テレビで見かけるおだやかな印象とは少し違う顔が出てきます。
会社員から芸能界に入ったのは20代半ば、しかもきっかけは、出るつもりのなかったオーディションでした。
そこから数年で「お嫁さんにしたい女性」と呼ばれ、レギュラー番組を6本抱える売れっ子になっています。
この記事では、因島で育った少女時代からデビュー、そして売れていった時期までを、確認できる事実だけで追いかけます。
目次
東ちづるの若い頃は因島から始まった|デビューまでの道のり
まずは、テレビに出る前の東ちづるさんがどんな人だったのかを見ていきます。
- 瀬戸内の島で育った少女時代
- 期待に応えつづけた優等生
- 受験の失敗と消えた記憶
- 短大卒業後に選んだ会社員生活
- 見学のはずのオーディション
瀬戸内の島で育った少女時代
東ちづるさんは1960年6月5日、瀬戸内海に浮かぶ広島県因島市の生まれです。
現在は尾道市因島となっている、造船とみかんで知られた島です。本名は東智鶴さんといいます。
家庭は教育に熱心でした。日本舞踊、書道、そろばん、オルガン、英会話。子どものころの習い事を並べると、きりがないほどです。
小学生のころは設計の仕事や漫画家に憧れ、のちに教師を目指すようになったと語っています。中学ではテニス部に入り、生徒会でも活動していました。
広島で育つということは、平和教育が生活の一部になるということでもありました。被爆した語り部の方が学校で話をしてくれる。平和記念資料館への遠足は「怖くて怖くて……夢に出てきそうで夜も眠れなかった」と振り返っています。
毎年8月6日は全校登校日で、サイレンが鳴る。家庭でも祖父母や親と戦争の話をするのが、特別なことではなかったそうです。のちの活動につながる原点は、この島の日常の中にありました。
先に、若い頃の歩みを一覧にしておきます。
| 1960年6月5日 | 広島県因島市(現・尾道市因島)に生まれる |
| 高校時代 | 広島県立因島高等学校に進学。漫画研究会に所属 |
| 短大時代 | 関西外国語大学短期大学部へ。2年時にハワイ大学の寄宿舎で英語を学ぶ |
| 卒業後 | ソニー系の会社に入社し、会社員として働く |
| 1984年ごろ | 松竹芸能のタレントオーディションでグランプリ |
| 1987年 | 『金子信雄の楽しい夕食』の初代アシスタントに |
| 1988年ごろ | 活動の拠点を東京へ移す |
| 1989年 | システムキッチンのCMに起用され、レギュラー6本の売れっ子に |
| 1997年 | 大河ドラマ『毛利元就』に綾の方役で出演 |
| 1998年 | 連続テレビ小説『天うらら』に後藤諒子役で出演 |
それでは、順に見ていきます。
期待に応えつづけた優等生
母親との関係は、東ちづるさんが繰り返し語ってきたテーマです。
母親は二十歳を少し過ぎたころに東さんを産みました。周囲からは「子どもが子どもを産んだ」と言われたそうです。東さん自身が超未熟児で生まれたこともあり、はじめは命をつなぐことに必死だったといいます。
やがて母親は「良妻賢母」を目指すようになります。育児書と教育書をたくさん読み、書いてあるとおりに育てた。東さんはそう説明しています。
背景には、母親自身の事情がありました。進学したいと思っても、島に生まれ、女性で、きょうだいの末っ子。島を出る選択肢がなかった人でした。だからこそ娘には「勉強をさせたかったし、自立をさせたいという思いが強かった」のだと東さんは受け止めています。
子どもにとって母親は「絶対的な存在だった」といいます。
期待に応えなければならない、愛されなければならない。尊敬する対象であり、愛する対象でもあり、ほかに選択肢がない。そういう相手でした。
だから東さんは、崩れない優等生でいました。習い事も勉強も部活も、求められた形をきちんとなぞる。若い頃の東ちづるさんは、まずそういう子どもだったわけです。
受験の失敗と消えた記憶
その優等生の日々が、高校3年で途切れます。
志望していたのは国立の教育大学でした。結果は不合格。落ち込んで帰ってきた娘に、母親がぽつりと言った言葉があります。
母親から返ってきたのは「18年間の私の期待を裏切ったわねえ」という一言でした。
怒鳴られたわけでも、責め立てられたわけでもありません。自分自身につぶやくような、静かな声だったと東さんは記憶しています。「それはとてもリアルで」とも語っています。感情をぶつけられるより、その静けさのほうが深く刺さったのでしょう。
この一件をきっかけに解離性障害に陥り、高校時代の記憶をほとんど失った。東ちづるさんは後年、そう公表しています。楽しかったはずの三年間が、ごっそり抜け落ちてしまったということです。
長い時間が経ってから、東さんは母親とともにカウンセリングを受けます。四十代に入ってからのことでした。その過程は『〈私〉はなぜカウンセリングを受けたのか』(マガジンハウス)という本になっています。提案したときの母親の反応は「私はおかしい人じゃない!」でした。
若い頃の東ちづるさんを知るうえで、この空白は避けて通れない部分です。
短大卒業後に選んだ会社員生活
進学先は関西外国語大学短期大学部でした。2年生のときにはハワイ大学の寄宿舎におよそ1か月滞在し、英語を学んでいます。島で育った少女が、外に出ていった時期です。
卒業後に入ったのはソニー系の会社でした。芸能界とは何の接点もない、ごく普通の会社員としての出発です。公式のプロフィールにも「会社員を経て芸能界へ」と、そっけないほど短く書かれています。
意外に思われるかもしれません。東ちづるさんは、芸能人になりたくて上京した人ではないのです。オーディション雑誌を読み込んでいたわけでも、劇団に通っていたわけでもありませんでした。
会社を辞めた理由すら芸能界ではなく、スポーツインストラクター志望だったと伝えられています。
体を動かす仕事に就こうとしていた人が、なぜテレビの世界に入ることになったのか。話はここから急に転がります。
見学のはずのオーディション
きっかけは、松竹芸能のタレントオーディションでした。
ただし、応募して臨んだわけではありません。暇つぶしに見学へ行っただけだったといいます。ところが会場で「欠員が出たので出てくれませんか」と声をかけられ、そのまま舞台に上がることになりました。
見学のつもりで足を運んだ会場で、欠員の代役として舞台に上げられたのが始まりでした。
しかも披露したのは歌でも芝居でもありません。司会を務めていた山田雅人さんと腕相撲をして、そのままグランプリを取ってしまいます。派手な格好をしていたので目に留まったのだ、という話も残っています。
このオーディションについては、資料によって記述が分かれています。1984年3月に行われた第1回で森脇健児さん・山田雅人さんとともに見出された、とする記述がある一方、東さん本人の項目では第2回とされています。回次まで断定できる一次資料は見当たりませんでした。
本格的に芸能活動をしようと決めたのは20代半ばだったと説明されています。ここでも資料によって一年ほどの幅があります。
はっきりしているのは一つだけ。狙って入った世界ではなかった、ということです。
東ちづるの若い頃を彩った代表作|売れっ子時代と活動の原点
ここからは、テレビに出はじめてからの東ちづるさんを追います。
- 夕食番組から全国区へ
- 「お嫁さんにしたい」と呼ばれて
- 東京進出とレギュラー6本
- 大河と朝ドラで見せた顔
- 骨髄バンクに動いた理由
- 東ちづるの若い頃についてまとめ
夕食番組から全国区へ
全国に顔が知られるきっかけは、1987年に始まった料理番組のアシスタントでした。
『金子信雄の楽しい夕食』。朝日放送が制作し、テレビ朝日系で流れていた番組です。俳優の金子信雄さんが料理をつくりながら酒を飲み、進行とともにだんだん酔っていく。いま考えると、相当に自由なつくりでした。
東ちづるさんは、その初代アシスタントに抜擢されます。役割は横で進行を支えること。ただ、にこにこ笑っているだけのアシスタントではありませんでした。
「お酒を飲み過ぎないように」。頑固な金子さんに、正面から本音をぶつける。その掛け合いが評判を呼びます。若い女性が大御所に遠慮なく物を言うという構図が、当時はまだ珍しかったのでしょう。
気の強さは、そのまま東さんの売りになりました。「お嫁さんにしたい女性有名人」に選ばれる一方で、「痴漢に遭ってもやり返すだろう女性」の1位にも挙げられていた、という話まで残っているほどです。
番組は1992年まで続きました。同じ1987年には、シノブフーズのおにぎり商品のCMにも出ています。
「お嫁さんにしたい」と呼ばれて
関西の女性誌のアンケートで、お嫁さんにしたい女性の1位に選ばれています。
料理番組で見せる家庭的な雰囲気と、遠慮なく物を言う人柄。その組み合わせが、当時の読者に受け入れられた結果でした。
ただ、本人はこの評価を少し引いたところから見ていたようです。「息子の嫁に、という話が多いんです」。当時そう語っていた記録が残っています。持ち上げられている実感というより、どこか他人事のような響きがあります。
後年のインタビューでは、もっとはっきりした言葉で振り返っています。
「『お嫁さんにしたい』と言われたころから、素の自分とのギャップを感じはじめたんです。私、違うって」
「とにかく忙しくて、本当の自分がどういう人間かなんてこともわからない」とも語っています。世間が求める東ちづる像と、本人の中身が離れていく。売れていく時期と、自分を見失っていく時期が、そのまま重なっていたわけです。
「私、なんかつまらない優等生をやってたな」。そう振り返れるようになるまでには、まだ時間がかかりました。
東京進出とレギュラー6本
活動の拠点を東京へ移したのは1988年ごろでした。
「お嫁さん」のイメージは、そのまま仕事につながります。1989年にはシステムキッチンのCMに起用されました。台所に立つ女性像を求めた広告と、当時の東さんの売られ方は、きれいに噛み合っていたわけですね。
東京へ出てからは、レギュラー番組を6本抱える売れっ子になりました。
クイズ番組の解答者としても顔を出しています。1988年から1991年にかけての『象印クイズ ヒントでピント』が、その代表格です。
1990年代に入ると、今度は司会の仕事が増えます。1992年から『TVチャンピオン』。同じころから『ビートたけしのTVタックル』。1993年からは『NHK歌謡コンサート』。職人技を競う番組、討論番組、歌番組と、方向性がまるで違う三つを並行して抱えていたことになります。
ドラマにも出ていました。1990年から1991年にかけて放送された『長七郎江戸日記』では、おなつ役を務めています。若い頃の東ちづるさんは、この時期がいちばん露出の多い時期でした。
大河と朝ドラで見せた顔
バラエティの司会者として知られていた東ちづるさんですが、1990年代の後半には俳優としての代表作が続きます。
1997年の大河ドラマ『毛利元就』では、綾の方を演じました。舞台は中国地方、つまり自身の郷里です。広島で育った俳優が、広島を舞台にした大河に立つ。本人にとっても特別な一年だったはずです。
翌1998年には、連続テレビ小説『天うらら』に後藤諒子役で出演しています。主人公がバリアフリー建築を学ぶために働く、設計事務所の所長という役どころでした。障がいのある人が暮らしやすい建物をつくるという物語です。のちの活動を知ってから振り返ると、不思議な符合に見えてきます。
司会で見せる顔と、時代劇や朝ドラで見せる顔。この時期の東さんは、その二つを行き来していました。バラエティで売れた人が俳優として大きな枠に呼ばれるのは、当時としても簡単なことではありません。
骨髄バンクに動いた理由
若い頃の東ちづるさんを語るうえで外せないのが、ボランティアの始まりです。
動くきっかけになったのは、生放送で見た17歳の白血病の少年の姿でした。
自宅でそのドキュメントを観ていて、司会者の扱い方に違和感を覚えたといいます。ふつうなら、そこで終わります。東さんは終わらせませんでした。プライベートでその少年を探し出し、直接話を聞きに行ったのです。
「『お兄ちゃんに死んでほしくない。治療法はあるんです』という文面に動かされて」。そう語っています。動いてみて分かったのは、人は誰かのために動いてくれるということでした。
そこで出てきたのが「私は私を活用できる」という言葉です。テレビに出ている自分を、伝えるために使えばいい。ここから骨髄バンクの啓発活動が始まります。日本で骨髄バンクの事業が動き出したのが1992年ですから、ごく初期から関わってきたことになります。
もっとも、売れっ子がボランティアをすることへの視線は、当時決して温かくありませんでした。「『東ちづるのパフォーマンス』とディスられたりしてストレートに受け止めて貰えなかった」と本人が振り返っています。
支えになった言葉もありました。ブレイク前、西日本ネットのローカル局で情報番組のディレクターに言われた一言です。「報道と政治は困った人の為にあるんだよ」。専門家でも何でもない自分が、困った人のためになる仕事をできるかもしれない。それはすごいことだな、と思ったそうです。
1999年には番組の取材でドイツ国際平和村を初めて訪れ、これも「人生が変わるような経験」になりました。テレビの仕事と社会活動が並走する形は、若い頃にもう決まっていたのです。
東ちづるの若い頃についてまとめ
- 東ちづるさんは1960年6月5日、広島県因島市(現・尾道市因島)の生まれ。本名は東智鶴さん
- 子どものころは日本舞踊・書道・そろばん・オルガン・英会話と習い事が多く、母の期待に応える優等生だった
- 高校3年で国立の教育大学に不合格。母の「18年間の私の期待を裏切ったわねえ」の一言が引き金となり、高校時代の記憶をほとんど失ったと公表している
- 関西外国語大学短期大学部を卒業後はソニー系の会社に入社し、会社員として働いていた
- 退社の理由は芸能界ではなくスポーツインストラクター志望だったと伝えられる
- 松竹芸能のタレントオーディションを見学に行き、欠員の代役で舞台に上がって腕相撲でグランプリを獲得
- オーディションの回次は第1回とする記述と第2回とする記述があり、断定できない
- 1987年『金子信雄の楽しい夕食』の初代アシスタントに抜擢され、全国で顔を知られる
- 大御所に本音をぶつける姿が評判となり、関西の女性誌で「お嫁さんにしたい女性No.1」に選ばれた
- 1988年ごろ東京へ進出し、1989年にはシステムキッチンのCMとレギュラー6本を抱える売れっ子に
- 1992年から『TVチャンピオン』、1993年から『NHK歌謡コンサート』など司会業が中心になっていった
- 1997年の大河ドラマ『毛利元就』で綾の方、1998年の『天うらら』で後藤諒子を演じた
- 生放送で観た17歳の白血病の少年をきっかけに骨髄バンクの啓発活動を始めた
- 「ミス広島」については公式プロフィールにも信頼できる報道にも記載が見当たらず、確認できなかった
こうして並べてみると、若い頃の東ちづるさんはずいぶん振れ幅の大きい人生を歩いています。島の優等生が記憶を失い、会社員になり、見学に行ったオーディションで舞台に上げられ、気づけばお茶の間の「お嫁さん」になっていた。
そして売れれば売れるほど、素の自分との距離が開いていったこと。その違和感の出口として社会活動があったこと。この二つがつながっているところが、東ちづるさんという人の面白さだと思います。
いま多様性を語る姿と、腕相撲でグランプリを取った若い頃。遠いようでいて、案外まっすぐ一本の線でつながっています。

