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ジュディ・オングさんの若い頃といえば、「魅せられて」の白い衣装を思い浮かべる方が多いかもしれません。
ただ、あの1979年にたどり着くまでに、すでに20年近いキャリアがありました。
台湾で生まれ、9歳で劇団に入り、11歳で映画デビュー。子役から始まった人なんです。
この記事では、台北で生まれた少女がどんな道をたどって国民的なヒット曲に届いたのかを順に見ていきます。
目次
ジュディ・オングの若い頃|台湾生まれの子役時代
まずは、歌手として知られる前の歩みを見ていきましょう。
- 台北に生まれ幼くして来日
- 9歳で劇団ひまわりへ
- 11歳で映画デビュー
- 16歳で歌手デビュー
- 学業と両立させた学生時代
台北に生まれ幼くして来日
ジュディ・オングさんは1950年1月24日、台湾の台北市で生まれました。
本名は翁ジュディさん。日本に帰化した当時の名前は翁玉恵さんで、台湾での名前は翁倩玉さんです。名前が三つあるところに、この人の歩んできた道が表れています。
来日したのは3歳のとき。家族とともに日本へ移り住みました。
父親の翁炳栄さんは、台湾のメディア界で活動した人物です。中国広播公司の駐日代表を務めており、仕事の関係で日本に拠点を移すことになりました。
父方の祖父にあたる翁俊明さんは医師で、辛亥革命に関わった人物として知られています。歴史の教科書に出てくるような出来事と、そう遠くない家系です。
兄の翁祖模さんは建築士として台湾で活動し、高鉄台中駅の建設に携わりました。
芸能一家ではありません。文化や社会と関わる仕事をする家に生まれた子供が、たまたま日本で育ち、そのまま芸能界に入っていったことになります。
先に、若い頃の歩みを一覧にしておきます。
| 生まれ | 1950年1月24日/台湾・台北市 |
| 本名 | 翁ジュディ(帰化当時は翁玉恵)/台湾名は翁倩玉 |
| 来日 | 3歳のとき |
| 劇団 | 1959年に劇団ひまわりへ入団 |
| 女優デビュー | 1961年、日米合作映画『大津波』 |
| 歌手デビュー | 1966年、日本コロムビア「星と恋したい」 |
| 学歴 | 東京中華学校 → アメリカンスクール・イン・ジャパン → 上智大学国際学部卒業 |
| 転機 | 1979年「魅せられて」 |
9歳で劇団ひまわりへ
芸能界への入り口は、1959年でした。
9歳で劇団ひまわりに入団します。
児童劇団として知られた場所で、多くの子役がここから世に出ていきました。日本語を家庭の外で身につけていく時期と、演技を学ぶ時期がちょうど重なっています。
台湾生まれの子供が日本の舞台に立つには、言葉の壁を越えなければなりません。その壁を、演技という形で越えていったことになります。
このころの日本は高度経済成長期に入ったばかりで、テレビが各家庭に広がり始めた時代でした。子役の需要が増えていく時期と、入団のタイミングが合っていたとも言えます。
劇団ひまわりは、演技だけでなく発声や身体表現も学ぶ場所です。のちに歌手として、そして舞台や映画で活動していく素地は、ここで作られたことになります。
芸能の世界に入った理由を本人が詳しく語った記録は見当たりません。ただ、9歳という年齢を考えれば、家族の判断があったと見るのが自然でしょう。
いずれにしても、この入団がなければ2年後の映画デビューもありませんでした。人生の分かれ道が、小学生のうちに来ていたことになります。
11歳で映画デビュー
入団から2年後の1961年、ジュディ・オングさんは映画に出演します。
作品は日米合作の『大津波』でした。これが女優としてのデビューになります。
日米合作という点が、この人らしいところです。日本語と中国語を話す環境で育ち、英語も身につけていく子供が、最初に立った現場が国境をまたぐ作品だった。その後のキャリアを予告しているような始まりでした。
映画の仕事はここで終わりません。20歳になった1970年には台湾映画『万博追跡』に主演しています。
そして1972年、台湾映画『真假千金』で第10回金馬奨の最優秀主演女優賞を受賞しました。金馬奨は中華圏で最も権威のある映画賞のひとつです。
翌1973年には『愛的天地』で第19回アジア映画祭の特別演技賞も受けています。
日本では歌手として知られていく一方で、台湾では映画女優として評価を積んでいた。若い頃のジュディ・オングさんには、二つの顔がありました。
16歳で歌手デビュー
歌手としてのスタートは1966年です。
日本コロムビアから「星と恋したい」を発表し、16歳で歌手デビューを果たしました。子役として活動しながら、歌の道にも足を踏み入れたことになります。
翌1967年には「たそがれの赤い月」がスマッシュヒットを記録します。デビュー2年目で名前が知られる曲を出したことになります。
ただ、ここから一気に大スターになったわけではありません。1973年にCBS・ソニーへ移籍し、日本と台湾の両方で活動を続けながら、次の代表曲を待つ時期が続きました。
同じ時期に日本の歌謡界で活躍していたのは、いわゆるアイドル全盛の世代です。そのなかで、映画女優としての顔も持ちながら歌を続けた例は多くありません。
「魅せられて」が出るのは1979年です。デビューから13年が経っていました。
10代でデビューして、20代の終わりにようやく最大のヒットが来る。長い助走があったからこそ、あの曲の存在感が際立ったとも言えます。
一発で世に出た人だと思われがちですが、実際には13年分の積み重ねがありました。
学業と両立させた学生時代
若い頃のジュディ・オングさんを語るうえで見落とせないのが、学歴です。
小学校は東京中華学校。そこからアメリカンスクール・イン・ジャパンへ進み、上智大学の国際学部を卒業しています。
中国語で学び、英語で学び、日本の大学で学ぶ。三つの言語圏を渡り歩いた学生時代です。
しかも、この間ずっと芸能活動を続けていました。映画に出て、レコードを出しながら、学業も手放さなかったことになります。
上智大学の国際学部は、当時から留学生や帰国生が多く集まる環境でした。日本と台湾の両方に根を持つジュディ・オングさんにとっては、居場所として自然な進路だったのかもしれません。
日本語・中国語・英語を使いこなす語学力は、この時期に固まったものです。のちに日本と台湾、香港を行き来して活動できたのは、若い頃の学びが土台にあったからでしょう。
ジュディ・オングの若い頃を変えた「魅せられて」
ここからは、1979年の大ヒットとその周辺を見ていきます。
- 25歳で始めた木版画
- 200万枚を超えた大ヒット
- 紅白で着た白い衣装
- 台湾でも受けた国民栄誉賞
- ジュディ・オングの若い頃まとめ
- この記事の情報源
25歳で始めた木版画
「魅せられて」の4年前、ジュディ・オングさんはまったく別のことを始めています。
木版画です。1975年、版画家の菊地隆知さんに師事し、制作を開始しました。
歌手としても女優としても活動していた時期に、第三の表現を手にしたことになります。しかも趣味の域では終わりませんでした。
1993年に初の個展を開き、1994年には白日会の正会員となります。2003年には「鳳凰迎祥」が日展に入選し、2005年には同じ作品が宇治の平等院に奉納されました。
いまの公式サイトでも、肩書は「歌手・女優・木版画家」と三つ並んでいます。歌が添え物ではないのと同じで、版画も添え物ではないということです。
木版画は、下絵を描き、版木を彫り、色ごとに刷りを重ねていく手間のかかる技法です。歌や演技のように人前で完結する仕事とは、性質がまるで違います。
人前に立つ仕事を続けながら、一人で机に向かう時間も持ち続けた。その両立が、20代半ばから始まっていたことになります。
若い頃のうちに、生涯続く仕事をもうひとつ手に入れていたわけです。
200万枚を超えた大ヒット
1979年2月25日、「魅せられて」が発売されます。
作詞は阿木燿子さん、作曲と編曲は筒美京平さん。ワコールの「フロントホックブラ」のCMソングとして世に出ました。
売上は、オリコン集計で123.5万枚。累計では200万枚を超えるセールスを記録しています。
受賞も並びました。第21回日本レコード大賞の大賞と作曲賞、第12回日本作詩大賞の大賞、FNS歌謡祭の最優秀歌唱賞、第8回東京音楽祭では国内大会のゴールデンカナリー賞と世界大会の銅賞。
その年の賞をほとんど持っていった格好です。
作詞の阿木燿子さんと作曲の筒美京平さん。1970年代の歌謡曲を支えた二人が組んだ曲でもありました。エキゾチックな旋律と、海を思わせる歌詞。当時の歌謡曲のなかでも、はっきりと異質な一曲です。
CMソングとして流れたことも、広まる速度を押し上げました。テレビで曲を耳にしてからレコード店へ向かう、という時代の売れ方です。
デビューから13年、子役時代から数えれば20年近く。ようやく届いた場所が、日本の音楽賞の頂点でした。
紅白で着た白い衣装
「魅せられて」を語るなら、衣装の話を外せません。
1979年、ジュディ・オングさんは第30回NHK紅白歌合戦に初出場します。そこで着ていたのが、あの純白のドレスでした。
両手を広げると、裾から手首まで袖が扇状に広がる。手首に芯を入れ、袖に筋を通すことで、鳥の翼のように見える形になっています。
歌い出しで腕を広げた瞬間の姿は、いまも「魅せられて」といえば思い出される場面です。
曲だけでなく、見た目でも記憶に残った。1970年代の歌謡曲では、衣装がここまで曲と一体になった例はそう多くありません。
袖を広げる動きは、歌詞の情景と結びついてもいました。曲を聴けば衣装が浮かび、衣装を見れば曲が流れる。そういう関係になっている数少ない例です。
紅白は初出場でした。デビューから13年目にして、大みそかの舞台に立ったことになります。
若い頃のジュディ・オングさんを検索すると必ず出てくるのが、このときの姿です。
台湾でも受けた国民栄誉賞
日本での大ヒットは、台湾にも届きました。
1980年、ジュディ・オングさんは台湾国民栄誉賞と海光奬彰を受けています。これは王貞治さんに続いて2人目の受賞でした。
台湾出身で日本に帰化した人物が、両国で同時に評価される。当時としてはかなり珍しい立ち位置です。
1972年に日本へ帰化していたことを考えると、この受賞の意味はさらに大きくなります。国籍を移したあとも、生まれた土地から称えられたということですから。
その後も1988年に「信」で香港白金唱片奬、1995年には勲一等華光奬章を受けています。勲一等華光奬章は、李麗華さん、テレサ・テンさんに続いて3人目の受章でした。
日本、台湾、香港。中華圏と日本の両方で名前が通る歌手というのは、当時も今も限られています。
若い頃に築いたこの二重の足場が、その後の長い活動を支えていくことになります。2011年には台湾政府から文化親善大使を、2012年には台湾師範大学から栄誉芸術家の称号を受けました。2022年8月には外務大臣表彰も受けています。
子役から始まった道が、両国の文化をつなぐ役割にまで伸びたことになります。
ジュディ・オングの若い頃まとめ
最後に、この記事で確認できたことを整理します。
- ジュディ・オングさんは1950年1月24日、台湾・台北市の生まれ
- 本名は翁ジュディさん。帰化当時は翁玉恵さん、台湾名は翁倩玉さん
- 3歳のときに家族とともに来日した
- 父は中国広播公司の駐日代表を務めた翁炳栄さん、祖父は辛亥革命に関わった翁俊明さん
- 1959年に劇団ひまわりへ入団し、9歳で芸能の道に入った
- 1961年、日米合作映画『大津波』で女優デビュー
- 1966年、日本コロムビアから「星と恋したい」で歌手デビュー
- 1972年に台湾映画『真假千金』で第10回金馬奨の最優秀主演女優賞を受賞
- 同じ1972年、日中国交正常化を機に日本へ帰化した
- 1975年に木版画の制作を始めた
- 1979年2月25日発売の「魅せられて」がオリコン123.5万枚、累計200万枚の大ヒット
- 第21回日本レコード大賞を受賞し、第30回NHK紅白歌合戦に初出場
- 紅白では、両手を広げると袖が扇状に広がる純白のドレスを着た
- 1980年に台湾国民栄誉賞と海光奬彰を受賞した
ジュディ・オングさんの若い頃をたどると、「魅せられて」の一発で世に出た人ではないことが分かります。
子役から始まり、映画賞を受け、木版画まで手がけながら、20年近くかけてあの曲に届いた。白い衣装で腕を広げたあの姿は、長い助走の先にあった一場面でした。

