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TBSの看板アナウンサーとして知られる安住紳一郎さん。
軽妙な語り口とアドリブの切れ味で親しまれていますが、若い頃はどんな人だったのか気になる方も多いのではないでしょうか。結論からいうと、北海道の十勝で少年野球に打ち込み、浪人を経て上京し、もともとは教師を目指していました。
アナウンサーへの進路変更は、大学の掲示板に貼られた1枚のポスターがきっかけだったといいます。
この記事では、安住さんの若い頃を、生い立ちからTBS入社当初までたどっていきます。
目次
安住紳一郎の若い頃|北海道で過ごした少年時代
まずは、安住さんがどんな環境で育ったのかを見ていきます。
- 生まれ育った北海道の町
- 少年野球に打ち込んだ日々
- 高校時代と浪人生活
生まれ育った北海道の町
安住紳一郎さんは、1973年8月3日に北海道帯広市で生まれました。
北海道といっても広大ですが、安住さんが育ったのは道東エリアです。まずは若い頃の歩みを整理しておきます。
| 生年月日 | 1973年8月3日 |
| 出生地 | 北海道帯広市 |
| 育った町 | 網走郡美幌町(小学2年まで)→ 河西郡芽室町 |
| 両親の仕事 | 砂糖工場の経理係 |
| 小学生時代 | 少年野球チーム「芽室ジャガーズ」 |
| 中学・高校 | 芽室町立芽室中学校 → 北海道帯広柏葉高等学校 |
| 浪人 | 代々木ゼミナール札幌校 |
| 大学 | 明治大学文学部文学科(日本文学専攻) |
| 入社 | 1997年4月・TBS |
生まれは帯広市ですが、幼少期を過ごしたのは網走郡美幌町でした。オホーツク海側に位置する町です。
そして小学2年生のとき、家族で河西郡芽室町へ移ります。十勝平野の中心部にある町で、ここが安住さんにとって「育った町」ということになります。
ご両親は、砂糖工場の経理係として働いていました。
この職業には、十勝という土地柄がよく表れています。十勝はてん菜、いわゆるビートの一大産地で、そこから砂糖が作られてきました。地域の基幹産業を支える職場だったわけですね。
農業と食品加工が生活の土台にある町で、安住さんは少年時代を過ごしました。
道東の冬は厳しく、雪と寒さが日常の一部です。派手な娯楽が身近にあるわけでもありません。そうした環境で育った経験は、のちの落ち着いた語り口や、地に足のついた話題選びにつながっている気もします。
なお安住さんは後年、母校である芽室中学校の記念講演に招かれています。全国区のアナウンサーになってからも、故郷とのつながりが続いていることがうかがえるエピソードです。
ここで押さえておきたいのが、安住さんが北海道のなかでも複数の土地を経験しているという点です。
生まれたのは帯広市、幼少期を過ごしたのはオホーツク海側の美幌町、そして育ったのは十勝の芽室町。同じ道内でも、気候も産業も少しずつ異なる地域です。
小学2年での転校は、子どもにとって決して小さな出来事ではありません。友人関係も生活のリズムも、一度リセットされることになります。
新しい環境で人間関係を築き直す経験を、安住さんは早い時期にしていたわけですね。
初対面の相手ともすぐに打ち解け、場の空気を読みながら話を回していく。現在の安住さんに見られるそうした資質の芽が、この頃にあったとしても不思議ではありません。
少年野球に打ち込んだ日々
芽室町に移った安住少年が夢中になったのが、野球でした。
所属していたのは「芽室ジャガーズ」という少年野球チームです。チーム名まで残っているあたり、地元ではよく知られた存在だったのでしょう。
北海道の少年野球は、本州とは条件が違います。冬は雪に閉ざされるため、グラウンドで練習できる期間が限られるのです。それでも子どもたちは室内で体を動かし、雪が解けるのを待ちます。
限られた季節に集中して打ち込む。そんな野球との付き合い方だったはずです。
この少年野球の経験は、安住さん本人にとっても印象深いものだったようです。2023年、母校の芽室中学校が開校50周年を迎えた際の記念講演で、少年時代は野球に打ち込んだと、当時を懐かしみながら語っています。
数十年が経ってから語られるほどですから、相当に濃い時間だったのでしょう。
この講演では、話し方に関する言葉も残しています。
「声、コトバ、話し方で生活が変わります」
「他人を変えたいなら声の掛け方を変える」
言葉を仕事にしてきた人ならではの助言です。そして興味深いのは、この視点が野球の経験と無縁ではなさそうな点でしょう。
チームスポーツでは、声を掛け合うことが基本になります。仲間への励まし、指示、確認。すべて言葉のやり取りです。
少年野球のグラウンドで交わした声が、のちに言葉を届ける仕事へつながっていった。そう考えると、この時期の経験は単なる思い出以上の意味を持っていたのかもしれません。
もうひとつ、講演というかたちで母校に戻ったこと自体にも注目したいところです。
開校50周年という節目に呼ばれるのは、その学校の卒業生を代表する存在として認められているということでしょう。全国区で活躍する人物が、地元の中学生の前に立ったわけです。
そこで語られたのが、華やかな芸能界の話ではなく、声や言葉の使い方だったという点も安住さんらしいところです。
「他人を変えたいなら声の掛け方を変える」という言葉は、テレビの世界に限った話ではありません。教室でも、家庭でも、部活動でも通用する助言です。
かつて自分が野球に打ち込んだ町の後輩たちに向けて、いちばん実用的な形で経験を渡そうとしたのだと思います。
高校時代と浪人生活
中学は芽室町立芽室中学校に進み、その後、北海道帯広柏葉高等学校へ入学します。
帯広柏葉高校は、十勝地方を代表する伝統校として知られる学校です。地元から進学校へ進んだことになります。
ただ、この高校時代には少し特殊な事情がありました。
高校3年生の一時期、安住さんは親の都合により一人暮らしをしていたのです。
受験を控えたもっとも大事な時期に、家族と離れて生活する。心細さもあったでしょうし、生活のすべてを自分で回さなければならない負担もあったはずです。
そして高校卒業後、安住さんは現役での進学とはなりませんでした。浪人生活を送ることになります。
通ったのは、代々木ゼミナールの札幌校でした。
十勝から札幌へ。距離にして200キロ以上あります。これもまた、地元を離れての生活です。高校3年での一人暮らしに続き、若い頃の安住さんは早い段階から自立した暮らしを経験していたことになります。
浪人という時期は、決して楽なものではありません。同級生が大学生活を始めているなかで、もう1年を受験勉強に費やすことになります。
それでも安住さんは、この1年を経て明治大学への進学を果たしました。
華やかな現在の姿からは想像しにくいかもしれませんが、若い頃の歩みは決して順風満帆な直線コースではなかったわけですね。
この時期の経験を、少し違う角度から見てみましょう。
高校3年での一人暮らし、そして札幌での浪人生活。安住さんは10代の後半を、かなりの部分「自分ひとりで生活を組み立てる」時間として過ごしています。
食事も洗濯も、勉強の計画も、すべて自分で管理しなければなりません。しかも浪人生には、学校のように毎日の枠組みを与えてくれる場所がないのです。
自分を律しないと1年が流れてしまう。そういう環境に身を置いていたことになります。
生放送の現場は、決められた時間のなかで自分の判断を積み重ねていく仕事です。誰かが逐一指示してくれるわけではありません。
若い頃に身につけた自己管理の感覚が、そうした現場での落ち着きにつながっている可能性はあるでしょう。一人暮らしも浪人も経験したうえで、安住さんは東京へ出ていくことになります。
安住紳一郎の若い頃を変えた進路|大学からアナウンサーへ
続いて、上京してからの日々と、アナウンサーになるまでの経緯を見ていきます。
- 明治大学で学んだ日本文学
- 教師志望から一転した理由
- 入社当初に任された番組
- 安住紳一郎の若い頃についてまとめ
明治大学で学んだ日本文学
浪人生活を経て、安住さんが進学したのは明治大学の文学部文学科です。専攻は日本文学でした。
アナウンサーという職業を考えると、この選択は結果的に大きな意味を持ちます。言葉そのものを研究対象とする学科だからです。
そして在学中、安住さんは齋藤孝ゼミナールに所属していました。
この点は見逃せません。齋藤孝さんといえば、『声に出して読みたい日本語』の著者として広く知られる教育学者です。日本語の響きやリズム、声に出すことの意味を長年追究してきた人物といえます。
つまり安住さんは、若い頃に「声に出す日本語」を専門的に扱う環境に身を置いていたことになります。
後年、母校の講演で「声、コトバ、話し方で生活が変わります」と語ったことを思い出してください。この言葉の背景には、大学時代に学んだ視点が流れているように見えてきます。
もちろん、当時の安住さんがアナウンサーを目指していたわけではありません。それでも、日本語を声にして届けることの力を学んだ経験は、のちの仕事の土台になったはずです。
さらに安住さんは、在学中に教員免許を取得しています。文学部で日本文学を学び、教職課程も並行して履修していたことになります。
そして1997年3月、明治大学を卒業しました。
大学時代の安住さんは、あくまで「国語の先生になる学生」でした。日本文学を学び、教員免許を取り、その道を進むつもりだったのです。
教職課程というのは、想像以上に負担の大きい選択です。
通常の卒業単位に加えて教職科目を履修し、さらに教育実習にも出向かなければなりません。時間割は当然きつくなりますし、遊べる時間も減ります。
それでも取り切ったということは、教師という職業への意志が本物だったことの証でしょう。片手間で取れる資格ではないからです。
そして、この選択が結果的に無駄になったかというと、そうとも言い切れません。
教師もアナウンサーも、「自分の言葉で、目の前の相手にわかるように伝える」という点では共通しています。相手の理解度を見ながら話し方を調整する技術は、どちらの仕事でも欠かせません。
日本文学で言葉の背景を学び、齋藤孝ゼミで声に出すことの意味に触れ、教職課程で伝え方を訓練する。振り返ってみると、安住さんの大学時代は、アナウンサーになるための準備が偶然そろっていた4年間だったようにも見えてきます。
教師志望から一転した理由
安住さんの若い頃を語るうえで、もっとも劇的なのがこの進路変更でしょう。
大学時代の安住さんは、本気で教師を目指していました。しかも、志望していただけではありません。
教育実習も済ませ、就職先まで決まっていたのです。
ここまで進んでいれば、通常はそのまま教壇に立つことになります。進路はほぼ確定していたといっていいでしょう。
ところが、そこで予想外の出来事が起こります。
きっかけは、大学の掲示板でした。そこに貼られていたアナウンサー募集のポスターが、安住さんの目に留まったのです。
ポスター1枚です。特別な誘いを受けたわけでも、以前からの夢だったわけでもありません。
それでも安住さんは、試験を受けてみることにしました。
受験したのは、TBS・日本テレビ・フジテレビ・テレビ朝日の4局です。アナウンサー試験は倍率が非常に高いことで知られ、何年も準備してきた学生でも突破は簡単ではありません。
結果はどうだったか。
4局のうち、最終選考まで進んで合格したのはTBSだけでした。
裏を返せば、他の3局では届かなかったということになります。もしTBSにも縁がなければ、安住さんは予定どおり教師になっていたはずです。
たった1枚のポスターと、たった1つの合格。この2つがなければ、いま私たちがテレビで見ている安住紳一郎というアナウンサーは存在しなかったことになります。
進路が決まりかけた状態から方向転換する決断力も、なかなかのものでしょう。
ここで想像してみたいのが、当時の安住さんが置かれていた状況です。
就職先が決まっているということは、周囲への説明が必要になるということでもあります。受け入れ先にも、指導してくれた大学の先生にも、そしてご家族にも。
北海道から息子を東京の大学へ送り出した親にとって、教員という進路は安定した着地点に見えていたはずです。それを覆してテレビ局を受けると伝えるのは、簡単なことではなかったでしょう。
しかも当時、アナウンサー試験の準備をしてきたわけでもありません。何年もアナウンススクールに通う学生がいるなかで、ほぼ準備なしで挑んだことになります。
それでいてTBSの最終選考を突破しているのですから、素の力が評価されたということでしょう。原稿を読む技術以上に、話す姿勢や人柄が見られたのかもしれません。
若い頃の安住さんは、決まっていた道を捨てて未知の道を選べる人でした。この一点だけでも、なかなか思い切りのいい若者だったことがわかります。
入社当初に任された番組
1997年4月、安住さんはTBSにアナウンサーとして入社します。
新人アナウンサーがすぐに大きな仕事を任されることは、そう多くありません。研修を受け、下積みを重ね、少しずつ出番を増やしていくのが一般的な流れです。
ところが安住さんの場合、動き出しが早いものでした。
入社からわずか半年で、『はなまるマーケット』への出演が始まっています。
『はなまるマーケット』は、生活情報を扱う朝の帯番組です。毎日放送される番組にこれだけ早く起用されたということは、入社当初から評価されていたことの表れでしょう。
朝の情報番組は、視聴者との距離が近い場です。決められた原稿を読むだけでなく、生活に寄り添った言葉選びや、共演者とのやり取りが求められます。
日本文学を学び、言葉と声について考えてきた若い頃の蓄積が、こうした現場で生きたのかもしれません。
続いて1998年からは『ジャスト』にも出演を開始します。入社から2年目にして、複数の番組を担当する状況になったわけですね。
ここからの歩みは、多くの方がご存じのとおりです。情報番組からバラエティ番組の司会まで幅を広げ、TBSのエグゼクティブアナウンサーという立場に至ります。
なお『はなまるマーケット』は、その後2014年まで続く長寿番組となりました。安住さんは若手時代を、この番組とともに歩んだことになります。
朝の情報番組は、決まった時間に決まった空気を届ける仕事です。派手さよりも安定感が求められ、毎日見ている視聴者に「いつもの人」として受け入れられる必要があります。
新人のうちからこの環境に置かれたことは、大きな訓練になったはずです。
そして『ジャスト』は夕方の情報番組でした。朝と夕方、時間帯の異なる番組を並行して担当することで、視聴者層の違いも肌で学べたでしょう。
若手時代に情報番組で基礎を固め、そこからバラエティ番組の司会へと領域を広げていく。この順番が、安住さんの芸風を形づくったといえます。
くだけた軽口を叩いても下品にならず、笑いを取りながらも情報の骨格は崩さない。あの絶妙なバランス感覚の土台は、入社当初の数年間にあったのかもしれません。
北海道の町で少年野球に打ち込み、一人暮らしと浪人を経験し、教師になるつもりで日本文学を学んだ若者。その人が、掲示板のポスター1枚から進路を変え、全国区のアナウンサーになりました。
安住紳一郎の若い頃についてまとめ
安住紳一郎さんの若い頃について、わかっていることを整理します。
- 1973年8月3日に北海道帯広市で生まれ、網走郡美幌町で小学2年まで育った
- その後、十勝平野の河西郡芽室町へ移り、ここで少年時代を過ごした
- 両親は砂糖工場の経理係として働いていた
- 小学生時代は少年野球チーム「芽室ジャガーズ」に所属し、野球に打ち込んだ
- 芽室町立芽室中学校を経て、十勝の伝統校である北海道帯広柏葉高等学校へ進学
- 高校3年の一時期は、親の都合により一人暮らしをしていた
- 現役では進学せず、代々木ゼミナール札幌校に通って浪人生活を送った
- 明治大学文学部文学科(日本文学専攻)に進学し、齋藤孝ゼミナールに所属した
- 在学中に教員免許を取得し、教育実習も済ませて就職先も決まっていた
- 大学の掲示板にあったアナウンサー募集ポスターを見て試験を受けることを決めた
- TBS・日本テレビ・フジテレビ・テレビ朝日を受験し、TBSのみ最終選考で合格
- 1997年4月にTBS入社。入社半年で『はなまるマーケット』、1998年から『ジャスト』に出演した
若い頃の安住さんは、教師になるはずの学生でした。
進路が決まりかけていたところから、掲示板の1枚のポスターで方向を変える。その偶然がなければ、いまの安住紳一郎さんはいなかったことになります。