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「奥田瑛二 若い頃」と検索すると、思いがけない言葉が並びます。
ホームレス、夜逃げ、麻酔なしの抜歯。とても大物俳優の経歴とは思えません。
けれど、そのどれもが本人の口から語られた実話でした。
この記事では、奥田瑛二さんの若い頃を、志を立てた小学生時代から結婚までたどっていきます。
目次
奥田瑛二の若い頃は極貧だった?下積み時代の壮絶な日々
まずは俳優を志してから、どん底に落ちるまでを追いかけます。
- 小5で役者を志した原点
- 27cm伸ばしたラグビー部時代
- 代議士の家での書生生活
- 付き人を夜逃げした日
| 生まれ | 1950年3月18日・愛知県春日井市 |
| 本名 | 安藤豊明 |
| 学歴 | 東邦高校卒業・明治学院大学法学部中退 |
| 下積み | 代議士の書生→付き人→モデル |
| どん底 | 公園で約3か月のホームレス生活 |
| 転機 | 1979年の結婚と、その1か月後のオーディション |
小5で役者を志した原点
奥田瑛二さんが俳優を目指したのは、小学校5年生のときでした。
きっかけは、映画『丹下左膳』です。オールスターの正月映画を観ていたとき、大友柳太朗さんの豪放で豪快なキャラクターに心を奪われました。昼間は酒を飲んでいるだけなのに、刀を抜いたらすごい。その豪快さに、完全にやられてしまったのだそうです。
本人は当時の感覚を、ある種のシンドロームだったと振り返っています。大友柳太朗さんの何かが体に入ってきて突き抜けていくみたいな感じで、もう夢中になった。そして「このスクリーンのなかに行きたい」と思ったのが、すべての始まりでした。
それまでは大川橋蔵さんの『新吾十番勝負』や、中村錦之助さんの『一心太助』を観てカッコいいと思う、ごく普通の映画好きの少年だったといいます。それが一本の映画で人生の進路が決まってしまったわけですね。
驚くのは、その夢を誰にも言わなかったことです。高校3年生になるまで、俳優になりたいという思いを胸に秘めたまま生きていました。小学5年生から高校3年生まで、およそ7年間の沈黙です。
言えなかった理由は、家庭環境にありました。父の安藤豊さんは春日井市議会議員。堅い家柄で、役者になりたいなどと言えば何が起きるかは想像がついたのでしょう。
それでも夢は消えませんでした。むしろ言葉にしない分だけ、内側で育っていったのかもしれません。
面白いのは、黙っていた7年間が空白ではなかったことです。奥田瑛二さんは部活さえも、俳優になるために選んでいました。芝居の稽古をするでもなく、養成所に通うでもなく、ただ将来スクリーンに立つ自分から逆算して日々を組み立てていたわけですね。誰にも打ち明けていないのに、行動だけは夢に向かって進んでいた。この矛盾が、少年時代の奥田瑛二さんを言い表しています。
小学生の頃に受けた衝撃だけを燃料にして、7年間走り続ける。奥田瑛二さんの若い頃を語るうえで、この執念はどうしても外せない出発点になります。
27cm伸ばしたラグビー部時代
夢を秘めた少年が最初に取り組んだのは、演技の勉強ではありませんでした。
体づくりです。それも、かなり切実な理由がありました。奥田瑛二さんの家系は、みんな小柄だったのです。150cm台という背丈が当たり前の一家でした。
そこで少年は思い込みます。映画俳優はスクリーンで見ると大きく見えるから、カッコよくてスラッとしていなきゃいけない、と。ならば背を伸ばすしかない、というわけですね。
まず選んだのが野球部でした。野球をやれば背が大きくなるだろう、という幻想を抱いての入部です。ところが、まったく大きくなりませんでした。中学時代は、並ぶと前から1番目か2番目という低さ。高校に入る時点での身長は152cmでした。
それでも諦めません。今度は、東京に行ったらとんでもない生活が待ち受けているだろうという予感から、集団格闘技と言われるラグビー部を選びます。毎日走り込めば、走っている間に背も高くなるだろうという計算でした。
結果は、本人の想像を超えていました。3年間でなんと27cmも伸び、174cmに達したのです。クラスで前から数えるほうだった少年が、後ろのほうに並ぶようになりました。
この瞬間、奥田瑛二さんは「よし、映画俳優になれる」という確信をつかみます。背が伸びたから俳優になれる、というのは論理としては相当に怪しいのですが、7年間秘めてきた夢にようやく現実味が宿った瞬間でもありました。
通っていたのは東邦高等学校です。俳優・声優の伊武雅刀さんが1学年先輩にあたる学校でもありました。のちに大きな意味を持つことになる、俳優の先輩がいる環境だったわけですね。
それにしても、背を伸ばすためだけに野球部からラグビー部へ移る中高生というのは、なかなかいません。しかも本人の中では「東京に行ったらとんでもない生活が待ち受けている」という予感まであり、それに耐える体を作るという目的も込みでの選択でした。この予感は、のちに公園で寝泊まりするという形で見事に的中してしまいます。
そしてこの確信が、封印を解くことになります。進学指導が始まり、親に進路を告げなければならなくなったのです。
代議士の家での書生生活
いよいよ、父に打ち明ける日がやってきます。
ただし奥田瑛二さんは、正面から「役者になりたい」とは言いませんでした。そんなことを言えば絶対にぶん殴られる、とわかっていたからです。代わりに口にしたのは「東京の大学に行きたい」という言葉でした。
返ってきた答えは「ダメだ。名古屋の大学に行け」。取りつく島もありません。
そこで年子の優秀な姉に相談します。ところが、姉の反応はもっと手厳しいものでした。
「たわけ! あんたみたいなバカが映画俳優になれるわけがないでしょう。映画俳優は頭がよくなければなれないんだよ」
姉は新劇かぶれで、文学座や俳優座の芝居を観ていた人でした。だからこそ、弟の甘さが見えてしまったのかもしれません。
最後の砦が、母でした。そして母から返ってきたのが「あんたの好きなようにすればいいわ」という一言です。この母の一言がなければ、奥田瑛二という俳優は存在しなかったことになります。
父の説得に使った切り札は「政治の勉強をするため」でした。正座して「相談がある。僕は東京の大学に行って見聞を広めたい」と切り出す。市議会議員の父にとって、政治を学びたいという息子の言葉は響いたのでしょう。ついに了解を得ます。
こうして東邦高等学校を卒業した奥田瑛二さんは、明治学院大学法学部に入学しました。しかも父の伝で、丹羽兵助代議士の秘書となり、住み込みの書生生活を送ることになります。表向きは、政治家を目指す優等生の道です。
もちろん本心は違いました。大学では演劇部にも参加しています。当時の先輩部員には、のちにジャーナリストとして知られる辺真一さんもいました。議員秘書の仕事をこなしながら、演劇部に通う。二重生活のような学生時代だったわけですね。
この書生生活という選択が、後々まで効いてきます。政治家の家に住み込むということは、大人の世界の裏側を毎日のぞくということです。金の話、人の使い方、頭の下げ方。そうしたものを、学生の身で間近に見ていました。アウトローな役から権力を持つ役まで幅広く演じ分ける俳優になったことを思えば、この時期に浴びた空気は決して無駄ではなかったはずです。
付き人を夜逃げした日
二重生活は、長くは続きませんでした。
議員秘書としての仕事もこなす学生生活を過ごすうちに、奥田瑛二さんは自分の本分は何なのかと悩み始めます。そして答えを出しました。出奔です。大学も中退してしまいます。
親を説得して東京に出してもらい、代議士の家に住まわせてもらい、大学にも入れてもらった。そのすべてを捨てる決断でした。相当な覚悟だったはずです。
ところが、ここからが甘くありませんでした。改めて役者を志願していくつかの劇団を当たったものの、タイミングが悪く、試験を受けることすらできずに頓挫してしまうのです。夢に向かって船を出したのに、乗る船が一隻もない状態ですね。
そこで頼ったのが、高校の先輩でもある俳優の天知茂さんでした。奥田瑛二さんは、天知茂さんの自宅に1か月間、毎日通い詰めます。日参という言葉がぴったりの、なりふり構わない行動でした。
この熱意が実り、師事することを許されます。こうして約2年ほど、天知茂さんの付き人を務めることになりました。
しかし、付き人の日々は将来につながる実感を与えてくれませんでした。このままで自分は俳優になれるのか。不安が膨らんでいきます。そしてついに、夜逃げ同然に飛び出してしまうのです。
1か月も日参して弟子入りした相手のもとから、逃げるように去る。格好のいい話ではありません。けれど奥田瑛二さんは、こうした過去を隠さずに語ってきました。夢のためなら筋も義理も飛び越えてしまう若さと危うさが、この時期の彼にはありました。
皮肉なのは、天知茂さんもまた東邦高校の先輩だったことです。故郷のつながりを頼って飛び込み、そのつながりから逃げ出した。愛知に帰る道も、師匠のもとに戻る道も、自分で断ってしまったことになります。
行き場を失った青年を待っていたのは、東京の夜です。生活のために夜の仕事で食いつなぐ日々が始まりました。
奥田瑛二の若い頃を変えた運命の出会い
どん底の生活は、思わぬ形で終わりを迎えます。
- 公園で暮らしたホームレス生活
- 六本木のパーティーでの出会い
- 麻雀と奥歯が決めた結婚
- 結婚1か月後に訪れた転機
- 奥田瑛二の若い頃と下積み時代まとめ
公園で暮らしたホームレス生活
夜の仕事をしていた奥田瑛二さんに、思わぬ転機が訪れます。
店の客に促されて、モデルの仕事を始めることになったのです。これが当たりました。CMなどにも出演するようになり、写真家・篠山紀信さんの企画に登場したり、画家の金子國義さんの目に留まったりと、名前が少しずつ知られていきます。麻布のイタリア料理店「キャンティ」に通うような、洒落た暮らしぶりも手にしました。
それでも俳優の夢は捨てきれません。当時のマネージャーの協力を得て、ついに1976年、特撮ドラマ『円盤戦争バンキッド』の主人公・天馬昇役でデビューを果たします。しかも主演です。26歳にして、ようやく夢の入口に立ちました。
順風満帆な俳優人生が待っている。誰もがそう思う場面ですよね。ところが現実は正反対でした。その後のオーディションには、まったく受からなかったのです。
主演デビューという肩書きは、次の仕事を運んでは来ませんでした。収入が途絶え、アパートの家賃は滞納していきます。その額、なんと2年分。当然の帰結として、部屋を追い出されました。
そして1978年、奥田瑛二さんは公園で寝泊まりする生活に入ります。期間はおよそ3か月。28歳のときのことでした。品川岸壁の荷揚げやスナックのウェイターなど、職を転々としながら食いつなぐ日々です。
ここで効いてきたのが、あのラグビー部で作った体でした。品川岸壁の荷揚げは、まぎれもない肉体労働です。背を伸ばすために走り込んだ3年間が、俳優になるためではなく、生き延びるために使われることになりました。高校時代に抱いた「東京ではとんでもない生活が待っている」という予感は、最悪の形で当たっていたわけですね。
普通なら、ここで諦めます。実家に帰れば、市議会議員の父がいて、屋根のある家があるのです。それでも奥田瑛二さんは帰りませんでした。「たわけ」と言った姉の言葉を認めることになるからなのか、7年間黙って温めた夢を手放せなかったからなのか。理由は語られていませんが、公園に居続けたという事実だけが残っています。
主演俳優としてテレビに映った男が、その2年後には公園にいる。この落差こそが「奥田瑛二 若い頃」と検索されるいちばんの理由なのでしょう。近年もグルメ番組でこの時代を自ら語り、大きな話題になりました。
六本木のパーティーでの出会い
公園暮らしのさなかに、人生を変える一夜が訪れます。
1978年、モデル時代の友人に誘われて、六本木のクラブで開かれたパーティーに顔を出したのです。会費は、その友人が出してくれました。所持金がない男が、人の金で入った会場。そこにいたのが、のちの妻となる安藤和津さんでした。
安藤和津さんは、パーティーの主役の友だちとして来ていたそうです。奥田瑛二さんはこの出会いを「それが運命のいたずらというかね」と表現しています。
ただし、最初に抱いた感情はロマンチックなものではありませんでした。本人いわく「この人にウソをついて、屋根のある家に寝転がれるかな」と考えたのだそうです。そして、あっさり振られています。
パーティーが終わったのは朝の4時ごろ。外は雨がザーザー降りでした。寝るところがない奥田瑛二さんは、彼女に家の場所を尋ねます。返ってきた答えは「飯倉片町」。
すかさず「僕は恵比寿だから、そこまで乗せて行ってくれない?」と切り出しました。もちろん「えーっ?!」という顔をされます。それでも「ごめん、どうせ道の途中じゃん」と押し切って、タクシーに同乗させてもらったのです。
そのタクシーの中で、翌日に六本木の喫茶店で待ち合わせる手はずまで整えてしまいます。したたかですよね。
そして降りた恵比寿のアパートには、追い出されているので入れません。奥田瑛二さんはアパートの裏にあった材木置き場のトタン屋根の下で雨をしのぎ、翌日は恵比寿から六本木まで歩いて喫茶店へ向かいました。そこから毎日会うことになります。
この一連の流れ、よく見ると全部が綱渡りです。友人が会費を出さなければ会場にいない。振られた後に食い下がらなければタクシーに乗れない。タクシーの中で約束を取り付けなければ翌日はない。恵比寿から六本木まで歩く気力がなければ、喫茶店にたどり着けない。どれか一つでも欠けていたら、二人は出会ったまま終わっていました。
本人が「運命のいたずら」と呼ぶのもうなずけますよね。ただ、いたずらを成立させたのは、屋根のない男の必死さでもありました。
麻雀と奥歯が決めた結婚
交際が始まると、次の関門は母親への紹介でした。
安藤和津さんの母・荻野昌子さんは、柳橋の元芸者から料亭「をぎ乃」の女将になった人です。娘を厳しく育てた、簡単には認めない相手でした。
そこで二人が考えた名目が、実に日本的です。お母さんが麻雀好きなので、麻雀をしに行くことにしたのです。恋人としてではなく、雀卓の面子として家に上がるという作戦ですね。
ところが、その麻雀中に身上調査のようなすごい突っ込みが始まります。奥田瑛二さんは全部しゃべりました。俳優志望であることも隠さず話しています。すると、正直な人だということで気に入られ、よく自宅の食事に誘ってもらえるようになりました。
決定的な事件が起きたのは、また麻雀をやっていたときでした。大三元をツモった瞬間に歯が痛くなり、ツモったまま椅子から落ちて倒れてしまったのです。
麻雀の最高役を和了した直後に昏倒する。冗談のような光景ですが、事態は深刻でした。その夜は意識が朦朧とした状態になり、翌日に歯医者へ運ばれます。そこで告げられたのが「あと1時間遅れていたら、歯の毒が脳に回って死んでいたかもしれない」という言葉でした。
さらに「今から麻酔も打てないので、このまま抜きます」と、麻酔なしでペンチで奥歯を抜かれます。看護師と彼女が体を押さえつけ、医師が力ずくで抜いたそうです。想像するだけで痛みが走りますよね。
問題はその後でした。その歯科には入院のシステムがありません。このままにはしておけないが預かる場所もない。そこで安藤和津さんが「じゃあ、家で預かります」と申し出たのです。玄関の右にあった4畳半の部屋で、1か月間寝かせてもらうことになりました。
そして母から告げられたのが、この一言でした。
「うちの娘が男性のパンツを洗う姿をはじめて見た。あなたたち結婚しなさい」
料亭の女将が、無職同然の役者志望を娘の相手として認めた瞬間です。奥田瑛二さん自身、そんな人がよく許してくれたなあと振り返っています。
結婚1か月後に訪れた転機
母の一言から、話は一気に進みます。
知り合って5か月で結婚を勧められ、8か月後には結婚式を挙げました。1979年のことです。相手は元首相・犬養毅の孫にあたる家の娘。かたや公園で暮らしていた売れない役者。字面だけ見れば、あり得ない縁組でした。
なぜ受け入れられたのか。奥田瑛二さんはこう分析しています。自分のようにホームレスをしていたり、売れない役者だったりして、目標だけあってホラを吹いて生きているようなのがいると「私がどうにかしてあげないといけないわ」と思ったのではないか、と。それまで自分の友だちにもいないタイプだったことに、ポンと火がついたのかもしれない、とも語っています。
そして、ここから信じられない展開が始まります。結婚して1か月経った頃、映画『もっとしなやかに もっとしたたかに』のオーディションがやってきたのです。
藤田敏八監督のこの作品で、奥田瑛二さんは実力を認められます。続いて東陽一監督の『もう頬づえはつかない』で桃井かおりさんの相手役に抜擢され、さらに『五番町夕霧楼』へ。本人の言葉を借りれば、ポンポンといきました。
2年間家賃を払えなかった男が、結婚した途端に映画俳優になる。すごい展開だった、と本人も認めています。
その後は1985年の『金曜日の妻たちへIII 恋におちて』、1986年の『男女7人夏物語』で人気が急上昇し、「不倫してみたい俳優」ナンバー1という称号まで手にしました。テレビで女性ファンをつかんだわけですが、本人はあくまで映画志向が強く、テレビ出演を続けながら映画にのめり込んでいきます。
そして同じ1986年、『海と毒薬』で熊井啓監督と出会います。この作品で映画では初の単独主演をつかみ、毎日映画コンクール男優主演賞などを獲得しました。ここでひと皮むけ、『千利休 本覺坊遺文』『式部物語』『ひかりごけ』と立て続けに熊井作品へ出演し、海外でも知られる存在になっていきます。
小学5年生で「このスクリーンのなかに行きたい」と願った少年が、本当にスクリーンの中心に立った瞬間でした。公園で寝ていた頃からは、想像もつかない場所です。
奥田瑛二の若い頃と下積み時代まとめ
ここまでの内容を整理します。
- 小学5年生で映画『丹下左膳』を観て役者を志し、高校3年まで7年間その夢を誰にも言わなかった
- 家系が小柄なため背を伸ばそうと野球部からラグビー部へ。152cmから3年間で27cm伸び174cmになった
- 市議会議員の父を「政治の勉強をするため」と説得して上京。明治学院大学に入り、代議士の書生になった
- 姉には「たわけ!」と一蹴され、母の「好きなようにすればいい」が背中を押した
- 大学を中退して出奔。天知茂さんの自宅に1か月間日参して付き人になるが、約2年で夜逃げ同然に飛び出す
- モデルを経て1976年『円盤戦争バンキッド』で主演デビューするも、その後のオーディションに全く受からず
- 家賃を2年間滞納して追い出され、1978年に約3か月間、公園で寝泊まりする生活を送った
- 六本木のパーティーで安藤和津さんと出会い、麻雀中の昏倒と麻酔なしの抜歯を経て、母から結婚を勧められた
- 1979年に結婚し、その1か月後のオーディションから俳優人生が一気に動き出した
奥田瑛二さんの若い頃は、想像以上に極端でした。
7年間夢を隠し、背を27cm伸ばし、大学を捨て、師匠から逃げ、公園で眠る。並べてみると無茶苦茶なのですが、どの場面でも「映画俳優になる」という一点だけはぶれていません。そして、その無茶を面白がってくれた人が現れた瞬間に、すべてが動き出しました。運命のいたずら、と本人は言います。けれど公園で3か月粘り続けた男にしか、そのいたずらは訪れなかったはずです。