ジャガー横田の若い頃が壮絶!世界王者の重圧で10キロやせた全盛期と中学時代の制服写真

ジャガー横田の若い頃が壮絶!世界王者の重圧で10キロやせた全盛期と中学時代の制服写真

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「女帝」の異名で知られる女子プロレスラーのジャガー横田さん。バラエティ番組での姿しか知らない世代には、若い頃はどんな選手で、どんな姿だったのかが気になるところではないでしょうか。

ジャガー横田さんは中学卒業後の1977年に全日本女子プロレスでデビューし、1981年には師匠のジャッキー佐藤さんを破って世界王者になりました。

その裏では、重圧で体重が10キロ落ちたり、髪切りマッチに敗れて丸坊主になったりと、壮絶な経験もしています。2024年には夫の木下博勝さんが、中学時代の制服姿の写真を公開して話題になりました。

この記事では、ジャガー横田さんの若い頃の経歴とエピソード、公開された写真について、本人の言葉や報道をもとに整理します。

ジャガー横田の若い頃|中学卒業から世界王者までの歩み

  • 若い頃の歩みを一覧で確認
  • 入門を決めた家庭の事情
  • 新人時代は「全員、敵」
  • 師匠を破って世界王者に
  • 王者の重圧で10キロやせた
  • リングネームの由来

まずは、デビューから世界王者になり、「ジャガー」の名が付くまでの歩みを順番に見ていきます。

若い頃の歩みを一覧で確認

ジャガー横田さんは1961年7月25日生まれ、東京都荒川区出身の女子プロレスラーです。本名は木下利美(きのした・りみ)さんで、旧姓が横田。デビューからしばらくは、本名の「横田利美」でリングに上がっていました。

所属団体の公式プロフィールによると、身長は159センチ、血液型はB型です。スポーツ歴は卓球、好きな食べ物はもんじゃ焼きや納豆と紹介されています。本人の公式サイトも、当時の女子プロレス界では小柄だったと説明しています。

若い頃の主な出来事を、先に一覧にしておきます。

生年月日・出身 1961年7月25日・東京都荒川区
デビュー 1977年6月28日(全日本女子プロレス)
世界王座の獲得 1981年2月25日、ジャッキー佐藤さんに勝利
リングネーム 王座獲得後に「ジャガー横田」と命名
髪切りマッチ 1983年5月7日に敗れて丸坊主に
一度目の引退 1986年2月15日
公開された写真 中学時代の制服姿など

公式プロフィールのタイトル歴には、初代全日本ジュニア王座、初代全日本シングル王座、第29代と第31代のWWWA世界シングル王座、第12代UWA世界女子王座などが並びます。デビューから数年のうちに、次々とベルトを巻いていったことが分かります。

なかでもWWWA世界シングル王座は、当時の女子プロレスで最強といわれたタイトルで、通称は「赤いベルト」。Number Webも、全日本女子プロレス時代のジャガー横田さんを、この看板タイトルを4年以上保持した選手として紹介しています。

東スポWEBの女子レスラー名鑑は、ビューティ・ペアが解散したあとの全日本女子プロレスを支えた「無敵の女王」と紹介しています。本人の公式サイトには、当時「アントニオ猪木の目を持つ女」と称されたという記述もありました。

小さな体と鋭い眼光で頂点に立ったのが、若い頃のジャガー横田さんだったわけですね。ここからは、一覧にした出来事を1つずつ詳しく見ていきます。

入門を決めた家庭の事情

ジャガー横田さんがプロレスの道を選んだ背景には、家庭の事情がありました。2024年10月に公開された集英社オンラインのインタビューで、本人が生い立ちを語っています。

それによると、ジャガー横田さんは4人姉妹で、幼い頃に両親が別居し、すぐ上の姉と一緒に母親に引き取られて育ちました。その後は義理の父に育てられましたが、両親は共働きで、暮らしは楽ではなかったそうです。

進路を決めたときの気持ちは、次のように振り返っています。

「姉は高校に行きましたが昼も夜も働いている母を見て『私も高校へ行くと家は大変だな』と考えて中学を卒業して女子プロレスラーになろうと決意しました」。

働きづめの母親の姿を見て高校には進まず、中学を卒業してすぐにプロレスの世界へ飛び込んだのです。

当時の全日本女子プロレスは、ジャッキー佐藤さんとマキ上田さんの「ビューティ・ペア」が絶大な人気を集めていた時期でした。スポーツ報知は、ジャガー横田さんが入団前からジャッキー佐藤さんに憧れていたと伝えています。

公式サイトのプロフィールには、全日本女子プロレスの新人募集に応募し、数百人の中から選ばれたとあります。本人も同じインタビューで「オーディションで合格してから、やめるにやめられないと思っていたのでハングリーでした」と話しました。

昭和の時代に入門してくる選手には、家庭に事情を抱え、家を助けるために自分で稼ごうとする子が多かったとも明かしています。ジャガー横田さん自身も、その1人でした。

入門後は、自分をあえて逃げ場のない状況に追い込んでいたといいます。「器用な人は選べると思いますが私は不器用だから選べなかった」という言葉が、当時の覚悟をよく表しています。

なお、インターネット上には、卓球で高校の推薦が決まっていたが辞退した、という話も見られます。卓球の経験があることは公式プロフィールで確認できますが、推薦の話は本人の発言や報道では確認できませんでした。

新人時代は「全員、敵」

デビュー戦は1977年6月28日、大田区体育館での高橋真由美さんとの試合でした。ここから、過酷な新人時代が始まります。

2026年7月のスポーツ報知のインタビューで、ジャガー横田さんは当時の心境をこう語りました。「負けたらやめなきゃいけない。負けられないと思っていました。だから、ただ、ひたすらにがむしゃらに勝てばいいと思ってやっていました」。

小柄な自分が生き残るには、勝つしかなかったといいます。悩みを打ち明ける相手もいませんでした。「他の人に相談なんかできません。全員、敵ですから。だから自分との闘いでした」。

それでも、辞めたいと思ったことは一度もなかったそうです。理由は「中学を卒業して入って辞めたら他に行くところがないわけです」というもの。クビにならないようにと自分に言い聞かせながら、10代を過ごしたと振り返っています。

練習量も人並みではありませんでした。集英社オンラインの記事によると、試合会場では毎日体育館をうさぎ跳びで1周し、就寝前には腕立て伏せ、腹筋、背筋などを100回ずつ自分に課していたそうです。公式サイトにも「人より先に練習を始め、人より多くのメニューをこなし」と書かれています。

当時の若手の試合については「派手な技はなくキックとボディスラム、押さえ込みぐらいしかない試合でした」と説明しています。地味な技を重ね、相手の肩をマットに押さえつけて勝ち上がっていく世界でした。

努力は結果につながります。1980年1月には、全日本ジュニアの初代王者になりました。それでも「これを本物にしなきゃ辞めないといけないと思っていました」と、気を緩めることはなかったようです。

同期にはミミ萩原さんがいました。別のインタビューでは、同期について「同期はライバルであり、良き仲間でもあるんです」と語っています。細身でケガが多かったミミ萩原さんが必死に努力する姿に、刺激を受けることも多かったそうです。

師匠を破って世界王者に

若い頃のジャガー横田さんにとって最大の転機が、1981年2月25日の試合です。会場は横浜文化体育館。相手は、WWWA世界シングル王者のジャッキー佐藤さんでした。

ジャッキー佐藤さんは、ジャガー横田さんが入団以来、付け人を務めてきた師匠のような存在です。付け人時代について、本人は「私に買い物へ行かせたり、無理な練習を強いることは一切ありませんでした。そんなジャッキーさんの背中を見て私はプロレスラーになっていったと思います」と語っています。

試合は、当時「横田利美」を名乗っていたジャガー横田さんが押さえ込みで勝ち、デビューから4年足らずで世界王座を手にしました。

Number Webは、この試合が「ピストル」と呼ばれる押さえ込みルールの真剣勝負で行われたと伝えています。会社が世代交代を図った一戦でもありました。

ところが、勝った瞬間の気持ちは喜びではありませんでした。「勝った瞬間は負けなかった安堵感だけ。次に襲った感情は『勝ってしまったぁ…』っていうバツの悪さでした」。当時の映像を見返すと、自分が気まずい顔をしているのが分かるそうです。

敗れたジャッキー佐藤さんは、その3か月後に引退しました。ジャガー横田さんは「あれほど偉大なジャッキーさんに勝って引退に追い込んでしまったことは、当時の私にとってつらいことでした」と明かしています。

負けたジャッキー佐藤さんは、怒ることも、何かを言うこともなかったといいます。「負けたほうは何も言わないものです…本当にスターでした」という言葉に、師匠への敬意がにじみます。

2023年に横浜市役所を訪れた際には、この一戦を振り返って「その時の試合があるから今のキャリアがある」と話しました。つらさも含めて、原点になった試合だったのでしょう。

スポーツ報知の取材でも、長い年月がたった今も「あの時の気持ちはまだ覚えています」と語りました。勝った喜びよりも、勝ってしまった重さのほうが強く残っているようです。

王者の重圧で10キロやせた

世界王者になってからのほうが大変だった、とジャガー横田さんは振り返っています。

象徴的なのが、リングアナウンサーのコールです。ジャッキー佐藤さんとタッグを組むと、王者であるジャガー横田さんの名前が後に呼ばれます。先に呼ばれる師匠には大歓声が起きるのに、自分の番になると会場が静まり返ったそうです。

「当時は年間300試合ありましたから、これが全国どこへ行ってもです」。人気では師匠にかなわない現実を、毎日のように突きつけられていました。

そのつらさを、本人は「ジャッキーさんに勝ったことは当時の私には重たすぎました。ベルトを返したかったほどです」と表現しています。憧れていたチャンピオンの座は、想像していたものとは違っていました。

重圧は体にも表れます。「それで食べられなくなって10キロやせました。60キロぐらいから50キロ切りました」。

世界王者になったあと、食事がのどを通らなくなり、体重が10キロも落ちてしまったのです。

特に防衛戦の前は食べられず、精神的にも体力的にも苦しかったといいます。それでも誰にも相談せず、すべて自分の中で消化しました。会社を経営していた松永兄弟についても「みんなの社長でありマネジャーですから自分が独占することはできませんでした」と、頼らなかった理由を説明しています。

公式サイトによると、当時は3か月に1度のペースで防衛戦があり、負ければ引退を迫られる厳しい世界でした。本人も別のインタビューで「チャンピオンは負けた瞬間に引退する、そんな雰囲気でした」と話しています。

そんな孤独な王者を支えたのが、1年後輩のデビル雅美さんの存在です。体格とパワーで迫ってくるライバルについて、「彼女がいてくれたから私は頑張り通せました」と感謝を口にしています。

スポーツ報知によると、王座は7回連続で防衛しました。一度は奪われたものの、その後さらに4度防衛しています。公式サイトは、通算で4年10か月ベルトを守ったと紹介しています。

リングネームの由来

「ジャガー横田」という名前が付いたのは、世界王者になったあとのことです。

2022年のスポーツ報知の記事によると、由来はシンプルでした。当時の全日本女子プロレスは団体内で3つのチームに分かれており、ジャガー横田さんはそのうちの「ダイナミックジャガーズ」のトップを務めていました。そこから、当時の部長が「ジャガー横田」と名付けたそうです。

改名にあたって名前の画数を調べたところ、「本物のチャンピオンになる、有名になる」という結果が出たというエピソードも紹介されています。

本人にとって、リングネームは特別なものでした。「本名じゃなくてリングネームが付くと選手として認められた気がしてすごくうれしかった」。

実は、後輩のデビル雅美さんのほうが先にリングネームをもらっていました。そのときの気持ちを「後輩が自分の位置を確保しているようですっごいジェラシーだった」と正直に語っています。「ジャガー」の名は、ライバルに負けたくないという思いの中で手にした勲章だったといえそうです。

名前が人を変えるという実感は、後輩を見ていても持ったそうです。入門当初は気が弱かったというダンプ松本さんについて、「『ダンプ松本』という名前になって覚醒したんです」と振り返っています。

ファイトスタイルの面でも、若い頃のジャガー横田さんは先駆者でした。東スポWEBの女子レスラー名鑑は、女子プロレスで初めてジャーマンスープレックスを使った選手だと紹介しています。腕を交差させて投げるジャガー・スープレックスも、ジャガー横田さんのオリジナル技です。所属団体の公式プロフィールの必殺技の欄にも、「ジャガー式」と名の付く技が並んでいます。東スポWEBは、卍固めを決める当時の写真に「女子ストロングスタイルの象徴だった」と説明を添えました。

同じ記事は、当時の団体を「実力派のジャガー、アイドル派のミミ萩原、急台頭したデビル雅美」の3人が支えたと振り返っています。人気者の先輩が去ったあとのリングを、実力で引っ張る立場になっていました。

ジャガー横田の若い頃の写真と全盛期のエピソード

  • 公開された若い頃の写真
  • 日本初の髪切りマッチで丸坊主
  • メキシコ遠征とドラマ出演
  • 一度目の引退とコーチ時代
  • ジャガー横田の若い頃まとめ

ここからは、公開された若い頃の写真と、全盛期から一度目の引退までのエピソードを見ていきます。

公開された若い頃の写真

ジャガー横田さんの若い頃の写真は、夫で医師の木下博勝さんが、自身のインスタグラムで何度か公開してきました。

大きな反響を呼んだのが、2024年12月12日の投稿です。木下さんは「昔シリーズ」として「ジャガーさんの中学生の頃の一枚。JJに似てますよね。(笑)」とつづり、中学時代の写真を披露しました。

スポーツ報知によると、写真は丸襟ブラウスの制服姿でした。同紙は見出しで「清楚な中学時代の姿」と表現しています。リングでの迫力ある姿とは、まったく違う雰囲気の1枚だったようです。

コメント欄には「大人びた美人」「可愛らしい」「とても初々しいですね」といった声が寄せられました。

「JJ」は長男の愛称で、木下さんは写真の妻が息子に似ていると紹介しています。オリコンニュースも、ファンから「ソックリ」という声が上がったと報じました。同じ投稿には、長男が幼かった頃の家族写真も添えられていたそうです。前日には木下さん自身の高校時代の写真も紹介されており、夫婦そろって昔の姿が話題になりました。

2025年1月9日には、20代の頃の写真も公開されています。俳優の真田広之さんとの2ショットで、J-CASTニュースによると、真田さんがジャガー横田さんの肩を抱き、2人ともカメラ目線ではにかんでいる1枚でした。

木下さんは、新宿コマ劇場に舞台を見に行ったときの写真だと説明しています。ジャガー横田さんの「理想の男性」が真田さんだとも明かしました。この投稿には「ふたりともお若い」といったコメントが寄せられています。

さらに2026年2月7日には、家族それぞれの若い頃の写真がまとめて投稿されました。オリコンニュースは、フォロワーから「ジャガーさんはカッコいい」という声が届いたと伝えています。

写真が出るたびに驚きの声が上がるのは、リング上の厳しい表情との落差が大きいからでしょう。制服姿の中学生が、数年後には世界王者になっていたわけですね。

日本初の髪切りマッチで丸坊主

若い頃のジャガー横田さんを語るうえで欠かせないのが、1983年5月7日に川崎市体育館で行われた髪切りマッチです。

相手は覆面レスラーのラ・ギャラクティカ選手でした。WWWA世界シングル王座に加えて、ジャガー横田さんは髪の毛を、相手はマスクをかけて戦っています。東スポWEBは、この試合を女子プロレス史上初の髪切りマッチと紹介しています。

結果は、ジャガー横田さんの敗戦でした。同じ記事によると、相手側のセコンドが乱入する中で敗れ、ベルトを失い、ファンが号泣する中で丸坊主になったそうです。

ところが本人は、この試合を「いい思い出になっている試合」と振り返っています。

きっかけは、会社側から「髪切りマッチやるか?」と持ちかけられたことでした。ジャガー横田さんは「誰もやったことがない新しいルールでやらせてもらうのは光栄なこと」と考え、すぐに引き受けたといいます。

負けたあとの受け止め方も前向きでした。「試合は負けたけど、髪の毛はすぐに伸びるし、次にギャラクティカと再戦する時にやり返せばいいと考えました。人と同じことをやるのは好きじゃない」。日本で初めての試みとして歴史に名前が残ることを、前向きに受け止めているそうです。

その後、ジャガー横田さんは再び世界王者になり、防衛を重ねました。丸坊主になっても折れなかったところに、当時の気の強さが表れています。

髪切りマッチといえば、1985年8月に大阪城ホールで行われたダンプ松本さんと長与千種さんの一戦が有名です。Netflixのドラマ『極悪女王』でもクライマックスとして描かれましたが、その2年前に先駆けとなる試合をしていたのがジャガー横田さんでした。

ダンプ松本さんは、ジャガー横田さんの3年後輩にあたります。ジャガー横田さんは自身の動画で、新人時代のダンプ松本さんを厳しく指導していたと明かしました。人柄については「気が弱いというか、優しいから。悪役になってコロっと変わったんだね」と語っています。

メキシコ遠征とドラマ出演

全盛期のジャガー横田さんは、国内だけでなく海外のリングにも上がっていました。公式プロフィールのタイトル歴には、第12代UWA世界女子王座も記されています。

メキシコ遠征の思い出は、2026年7月に公開されたインタビューで語られました。プロレスラーの越中詩郎さんについて「昔メキシコ遠征で一緒だったんです」と明かしています。

当時は女子と男子のプロレスにまったく接点がなく、「私はそれまで男子のレスラーと口をきいたこともなかったんですよ」とのこと。現地では話すしかなかったので、いろいろな話をしたり、一緒に食事に行ったりするようになったそうです。

インターネット上には、メキシコ遠征の時期や現地での試合内容を詳しく書いた記事もあります。ただ、遠征の年や対戦相手については、本人の発言や報道では確認できませんでした。

リングの外では、テレビドラマにも出演しています。1984年のTBSドラマ『輝きたいの』は、女子プロレスの世界を舞台にした青春ドラマでした。TBSチャンネルの番組紹介には、全日本女子プロレスの全面協力のもと、人気レスラーのジャガー横田さん、デビル雅美さんらが出演したとあります。

コーチ役は菅原文太さんと和田アキ子さんで、250人の応募者の中から選ばれた今井美樹さんの女優デビュー作でもありました。世界王者として戦いながら、ドラマに呼ばれるほどの人気レスラーでもあったのです。

それから約40年後の2024年には、Netflixのドラマ『極悪女王』に、若い頃のジャガー横田さんをモデルにした人物が登場しました。演じたのは水野絵梨奈さんです。

本人は自分の役について「恥ずかしいし、『あんなことやってたのかな?』と思っていましたが、周りからは『似ている』と言われるので『そうなんだろうな』と受け止めています」と語りました。一方で、ジャッキー佐藤さんとの試合前を描いた場面には「心外でした」と、事実と違う部分をはっきり指摘しています。

一度目の引退とコーチ時代

ジャガー横田さんは1985年12月に引退を表明し、世界王座を返上しました。引退試合は1986年2月15日、川崎市体育館。相手は、長年のライバルだったデビル雅美さんです。

引退の背景には、いくつかの事情がありました。東スポWEBは、肩の負傷を理由に挙げています。当時の全日本女子プロレスに、若いうちに引退する「定年制」が暗黙の了解としてあったことも関係していました。

本人は定年制について「ゴールが見えて、限りがあるからそこまで頑張ればいいと思ってましたから、何とかリングに上がり続けられました」と話しています。終わりが決まっていたからこそ、孤独な防衛戦を戦い抜けたのですね。

スポーツ報知の取材では、当時交際していた相手がいて、辞めて結婚すればいいと考えていたことも明かしました。別のインタビューでは「私は負けて辞めたくなかったので、王座を返上して一度目の引退をしました」と語っています。

ベルトを奪われて辞めるのではなく、自分から王座を返上してリングを降りたのが一度目の引退でした。

引退後は、全日本女子プロレスのコーチになりました。「6年くらい新人選手のコーチをやっていましたね」と振り返っており、テレビ中継の解説も務めました。

コーチ時代の最初の教え子が、アジャ・コングさんです。ジャガー横田さんは、基礎を大切にしてケガをしない体を作ることを厳しく教えたと語っています。その考え方は、自身の経験から来ていました。「特に自分は若い頃、それをみっちりやったので、その貯金で今も壊れない身体を持っていますからね」。

リングに戻るきっかけは、1994年に東京ドームで行われたエキシビションマッチでした。翌1995年1月4日、後楽園ホールで正式に現役復帰しています。その後は2度目の引退と復帰を経て、2004年に木下博勝さんと結婚し、2006年に長男を出産しました。

2026年7月24日には、後楽園ホールで「デビュー50周年記念大会」を開催しました。メインイベントの6人タッグマッチに出場し、自らフォールを奪って勝利しました。若い頃に「やれても10年」と考えていた選手が、半世紀後もリングに立っていたことになります。

ジャガー横田の若い頃まとめ

ジャガー横田さんの若い頃について、分かったことをまとめます。

  • 1961年7月25日生まれ、東京都荒川区出身。本名の読みは「りみ」
  • 働きづめの母親を見て高校に進まず、中学卒業後に全日本女子プロレスへ入門した
  • 1977年6月28日にデビュー。新人時代は「全員、敵」と考えて練習に打ち込んだ
  • 1981年2月25日、師匠のジャッキー佐藤さんに勝って世界王者になった
  • 王者の重圧で食事ができなくなり、体重が10キロ落ちた
  • 「ジャガー横田」の名は、所属チーム「ダイナミックジャガーズ」から付けられた
  • 1983年5月7日の髪切りマッチに敗れて丸坊主になったが、本人は「いい思い出」と語っている
  • 王座を自分から返上して1986年2月15日に一度目の引退をし、コーチとしてアジャ・コングさんらを育てた
  • 中学時代の制服姿や20代の頃の写真は、夫の木下博勝さんがインスタグラムで公開した

小さな体で頂点に立ち、重圧にも丸坊主にも折れなかったのが、若い頃のジャガー横田さんでした。当時みっちり積んだ練習が、長いレスラー人生の土台になっています。

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