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Kis-My-Ft2のメンバーとして活動し、アニメ好きが高じて声優の仕事にも挑戦してきた宮田俊哉さん。実家はどこにあり、どんな家族のもとで育ったのか、気になる方も多いのではないでしょうか。
宮田俊哉さんの実家は神奈川県にあり、地元は大和市と伝えられていて、家族は両親と姉、弟です。
芸能界に入ったきっかけは、堂本光一さんのファンだった母親に連れて行かれたオーディションでした。
この記事では、宮田俊哉さんの実家と家族について、本人の言葉や報道をもとに整理します。
目次
宮田俊哉の実家は神奈川県大和市|家族構成と地元の話
- 実家と家族の基本情報
- 地元は神奈川県大和市
- エバース町田は地元の後輩
- 両親と姉・弟の家族構成
- 姉と弟との子供時代
まずは、実家の場所について分かっていることと、家族の顔ぶれから見ていきます。
実家と家族の基本情報
宮田俊哉さんは1988年9月14日生まれ、神奈川県出身です。所属事務所の公式プロフィールには、生年月日と出身地、血液型(A型)が載っています。雑誌『Myojo』のプロフィールでは、身長は173cmと紹介されていました。
2001年2月4日に当時のジャニーズ事務所へ入所し、2005年にKis-My-Ft2のメンバーに選ばれました。2011年8月10日にCDデビューし、2020年公開の劇場アニメ『劇場版 BEM 〜BECOME HUMAN〜』では声優デビューも果たしました。
実家と家族について分かっていることを、先に一覧にしておきます。
| 出身地 | 神奈川県(公式プロフィール) |
| 地元 | 大和市(地域紙の記事などによる) |
| 家族 | 両親、姉、弟 |
| 父親 | 幼い頃にプロレスごっこをして遊んだ |
| 母親 | 堂本光一さんのファン |
| 姉・弟 | 姉はピアノ、弟は野球をしていた |
| 入所のきっかけ | 母親に連れて行かれたオーディション |
実家の町名や番地は、本人からも事務所からも公表されていません。家族は一般の方で、名前や仕事も明かされていない状況です。
一方で、子供の頃の家の様子や家族とのやり取りは、宮田さん自身が雑誌のインタビューやテレビ番組で何度も語ってきました。なかでも詳しいのが、アイドル誌『Myojo』の2013年3月号に載った1万字のロングインタビューです。入所前の暮らしからデビューまでを振り返る内容で、父親、母親、姉、弟の全員が話に出てきます。
ほかにも、2021年2月のテレビ番組では母親との関係を、2026年3月の映画イベントでは地元と弟の話を明かしました。こうした発言を順に追っていくと、実家の様子が少しずつ見えてきます。
インターネット上には、実家の最寄り駅や家族の勤め先まで挙げる記事も見られます。ただ、根拠が示されていないものや、推測にとどまるものが多くありました。この記事では、公式プロフィール、本人の発言、報道で確かめられた範囲に絞ってお伝えします。
地元は神奈川県大和市
所属事務所の公式プロフィールに書かれている出身地は「神奈川県出身」で、市区町村までは載っていません。『Myojo』のインタビューに添えられたプロフィールも「神奈川出身」という表記でした。
では、神奈川県のどこなのでしょうか。手がかりになる情報が2つあります。
1つ目は、神奈川県の地域情報紙『タウンニュース』大和版が2019年11月22日に載せた記事です。大和市内のある市立小学校の歴史を紹介する内容で、1万2千人を超える卒業生のなかの著名人として、長野博さんや川栄李奈さんらと並んで宮田俊哉さんの名前が挙げられています。前市長や弁護士、プロ野球選手も卒業生として紹介されており、地域で長く親しまれてきた学校であることが分かります。
2つ目は、お笑いコンビ・エバースの町田和樹さんとのエピソードです。宮田さんは2026年3月のイベントで、町田さんから「地元が一緒」だと声をかけられたと明かしました。その町田さんの出身地は、吉本興業の公式プロフィールで「神奈川県 大和市」となっています。
公式プロフィールの出身地は神奈川県までですが、地域紙の記事と共演者の話から、地元は大和市だと分かります。
『タウンニュース』の同じ記事によると、大和市が市になったのは1959年2月1日でした。宮田さんが通った小学校は、それより10年前に開校した歴史のある学校だと紹介されています。
町名や最寄り駅、通った中学校や高校の名前については、具体名を挙げる記事がインターネット上に数多くあります。しかし、本人の発言や事務所の発表、報道では確認できませんでした。実家の場所をこれ以上細かく特定できる情報は、公表されていないと考えてよいでしょう。
学歴についても、公式プロフィールに記載はありません。本人が語っているのは、高校時代は「家が遠かった」ため、仕事を終えて帰ると深夜になることが多かったという話です。実家から遠い仕事場へ通う生活が、長く続いていたことがうかがえます。
エバース町田は地元の後輩
地元にまつわる話として新しいのが、エバースの町田和樹さんとのつながりです。2026年3月25日、宮田さんはローフ役の日本版声優として参加した映画『私がビーバーになる時』の、都内で行われた大ヒット記念イベントに登場しました。
イベントには主人公の声を担当した芳根京子さんや、小手伸也さん、3時のヒロインのかなでさんも出席しています。宮田さんによると、この映画の仕事をしている時期にエバースの2人と共演する機会があり、その場で町田さんから声をかけられたそうです。
最近衝撃だったことを聞かれた宮田さんは、「エバースの町田さんから『実は宮田さんと地元と一緒なんですよ』と聞いて。まさかの地元の後輩だった」と明かしています。
町田さんは宮田さんより4つ年下で、学年は重なっていません。ただ、思わぬ接点がありました。「僕の弟と同級生だったんですよ!町田さんも弟も野球をやっていて、小学生の頃に試合したことあるって聞いて。えーそんな近いの!って。それは衝撃でしたね」。
町田さんは宮田さんの弟と同級生で、小学生の頃に野球で試合をしたことがある間柄でした。
町田さんからは、地元での噂も聞かされたそうです。モデルプレスの記事によると、宮田さんは「『宮田さんはバレンタインの時に軽トラいっぱいのチョコレートをもらってた』って言っていて。でも僕そんなもらったことなくて…。地元じゃモテてたらしいよって噂が流れてるのは悪い気はしないですね」と話しました。
2013年のインタビューでは、昔の自分について「全然、モテなかったし」と振り返っていた宮田さん。本人の記憶とはずいぶん違う噂が、地元では広まっていたことになります。
イベントの最後には「仲良くなりたいんですけど、連絡先を知らないんですよね。誰か知ってます…?」と共演者に問いかけていました。アイドルとお笑い芸人という別々の道を歩んできた2人が、同じ街の出身だと分かった出来事でした。
両親と姉・弟の家族構成
宮田さんの家族は、父親、母親、姉、弟です。『Myojo』のインタビューでは、兄弟は姉と弟かと聞かれて「はい」と答えています。
家族は両親と姉、弟で、宮田さんは3人兄弟の真ん中にあたります。
弟さんは、先ほど触れた町田和樹さんと同級生なので、宮田さんの4学年下ということになります。姉との年の差は、本人の発言や報道では確認できませんでした。
父親との思い出として語られているのが、幼い頃のプロレスごっこです。「お父さんとプロレスごっこしてて、網戸をロープ代わりにして反動をつけようとしたら、網戸が開いてて、そのまま外のアスファルトに落ちて泣くとか、自転車で両手離しができたんで、“ブランコでもできる!”って、実際やって指を骨折とか」。
家の中で父親と体を使って遊ぶ、にぎやかな家庭だったことが伝わってきます。本人はこの頃の自分を「よくケガしたり骨折したりした記憶があります」と振り返り、「思いついたことはやらないとがまんできなかったんですよね」とも話していました。小さい頃の性格については、「今と変わらずアホだったんじゃないですかねえ(笑)」と笑い飛ばしています。
しつけについては、2025年2月に公開された雑誌『Oggi』のウェブ記事に手がかりがあります。取材の合間に宮田さんは、自分は「“女の子には優しくしなさい”と言われて育った」と話していました。
高校時代の思い出を語る場面では、仕事から帰ると「もう家族はみんな寝てる」ことが多かったとも話しています。少なくとも高校生の頃までは、家族と一緒に実家で暮らしていたことが分かります。
父親の仕事や家族の名前、姉や弟の勤め先は公表されていません。インターネット上には家族の職業や名前を挙げる記事もありますが、本人の発言や報道では確認できませんでした。実家の暮らし向きについても、本人が具体的に語った内容は確認できていません。
家族のことは、宮田さん自身が公の場で話した範囲にとどめてお伝えします。
姉と弟との子供時代
姉と弟にはさまれて育った宮田さんは、子供の頃の兄弟のエピソードもいくつか明かしています。
まずは姉との思い出です。「小さいころは、よくお姉ちゃんにくっついてって遊んでもらって。昔の写真、ゴムで髪を結んでたり、スカートをはかされたりしてるのが多いんです。お姉ちゃんがピアノ習ってたから、“やりたい!”って言って習ったり。結局、なんにもできないままやめましたけど」。
姉のあとをついて回る弟だったことが分かります。髪を結ばれたりスカートをはかされたりと、姉の遊び相手になっていた様子も目に浮かびます。
弟とは、習いごとで差がついたようです。水泳については「今でも全然泳げないんですけど、水泳も。あとから弟もスイミングに入ってきて。俺がビート板でバチャバチャやってるのに、弟はドンドンうまくなっちゃって大会に出たり。いづらくてやめましたね」と話しています。
スポーツでも同じことが起きました。「小学生のときサッカーをやってたけど、ずっと補欠で。弟は野球を始めて、すぐにエースで4番みたいな。“コイツ、なんなの?”って。“スポーツなんて、二度とやんねー”って思った(笑)」。
何をやっても弟のほうが上達する。兄としては複雑だったはずですが、本人は笑い話として語っています。このとき弟さんが打ち込んでいた野球が、のちに町田和樹さんとの縁につながったわけです。
当時の宮田さんには、将来の夢も特技もなかったといいます。「成績表、ずーっとオール3だったんです。1回もブレたことがない」「僕は、長所もなければ、短所もないってコでした」。学校で将来の夢を聞かれると、「公務員」「サラリーマン」など、その場で面白いと思った答えを返していたそうです。本人いわく「将来の夢って質問は、もはや大喜利だと思ってましたから」。将来の夢を聞かれるたびに、笑いを取りにいく小学生だったわけです。
目立つところのなかった少年が、やがて母親に連れられて芸能界に入ることになります。
宮田俊哉の実家エピソード|母の夢と家族の支え
- 母は堂本光一のファン
- 小6で受けたオーディション
- 実家から通ったレッスン時代
- 冷蔵庫にあったポテトサラダ
- 大人になっても母と仲良し
- 宮田俊哉の実家まとめ
ここからは、母親の夢から始まった入所の経緯と、実家で宮田さんを支えた家族の話を見ていきます。
母は堂本光一のファン
宮田さんの実家を語るうえで欠かせないのが、母親の存在です。母親は大のジャニーズファンでした。
『Myojo』のインタビューで、子供の頃から理髪店ではなく美容室に通っていた理由を聞かれた宮田さんは、こう答えています。「お母さんがジャニーズ好きだったんで、美容室でしたね。うちのお母さん、中学生のころから“私の子ども、ジャニーズに入れる!”って言ってたらしくって。そう考えると、すごいですよね。夢をかなえて」。
なかでも好きだったのが、堂本光一さんです。宮田さんはジャニーズショップによく連れて行かれ、アイドルと一緒に写るフォトシールを母親が撮っている間は、「外で待たされて」いたと振り返っています。
母親は堂本光一さんのファンで、宮田さんは小さい頃から「光一くんみたいな王子様になるんだよ」と言われて育ちました。
この話は、2019年12月のマイナビニュースの記事で紹介されています。宮田さんがNHKの番組で選んだ「ジャニーズ王子さま番付 BEST5」の1位が光一さんで、それを知った光一さんはラジオで「いつも言ってくれるよね。ありがたいよね」と話したそうです。
母親の影響は髪型にも及んでいました。2018年11月、ドラマ『やすらぎの刻〜道』への出演が発表され、役のために人生初の短髪にした際、宮田さんは「ウチの母が元々ジャニーズ大好きで、小さい頃から“堂本光一くんの写真を持って美容室に行きなさい”という教育を受けてきたので、この短さを見たらビックリしちゃうと思います(笑)」とコメントしました。
そして2026年7月、音楽番組で光一さんと共演した宮田さんは、2人で撮った写真をSNSに投稿しました。添えられた言葉は「小学生の頃から光一くんみたいになるんだよ!と母に育てられ、美容院に行くときは光一くんの写真を持たされてた俊哉が!!!!!一緒に写真撮って頂けるまでに成長しました!!」。母親の夢と一緒に育った少年の、長い年月を感じさせる報告でした。
小6で受けたオーディション
宮田さんが事務所に入ったのは、母親に連れて行かれたオーディションがきっかけでした。
小学6年生の終わり頃、母親の「原宿行くよ」という一言で連れ出された先が、オーディションの会場でした。
またジャニーズショップだと思った宮田さんは、行きたくないと伝えます。「“ヤだよ”って言ったら、“ちがう、今日はオーディション”って。俺、“もっとヤだよ!!”って言ったんです」。
それでも母親はあきらめません。「“ジャニーズに入ったら、すっごい人気者になれるんだよ。大金持ちにもなれるんだよ”みたいに(笑)。最終的に丸め込まれて」と、宮田さんは振り返っています。
オーディションではダンスなどをしたものの、特技もなく、何もアピールできないまま終わったそうです。帰ろうとしたところで何人かが呼ばれ、「知らない人がラーメンおごってくれて」、そのあとスタジオで雑誌用の写真を撮りました。ラーメンをごちそうしてくれた人は、事務所の社長だったといいます。
このときの心境を、宮田さんは「学校で知らない人についていっちゃダメって言われたよな。教えに反してるな〜って思いました」と明かしています。言いつけを守ろうとする、素直な小学生だったようです。
家に帰って報告すると、母親は「“あら、もう載っちゃうの!?”ってウキウキしてて」。ところが発売日に雑誌を買ってくると、一緒に撮影した同期は載っているのに、宮田さんだけ載っていなかったそうです。
入所日は2001年2月4日です。マイナビニュースによると、この日は横尾渉さん、二階堂高嗣さんも同時に入所しており、のちに同じグループでデビューすることになります。横尾さんは2021年3月のラジオで、「一番覚えてるのは、オーディションの日に、宮田俊哉くんと一緒にストレッチをしたこと。これは忘れられない」と話していました。
当時の本人に強い意気込みはなく、「続いた習いごともないんで、そのうちやめるだろくらいの感覚でしたね」と話しています。きっかけを作ったのも、背中を押したのも母親でした。
実家から通ったレッスン時代
入所後は、ときどき日曜日にNHKで行われるレッスンに、実家から通う生活が始まりました。
ただ、中学1年生の頃は友達と遊びたい気持ちのほうが強かったそうです。友達の誘いを断ってまで続けることなのかと考えはじめ、母親に気持ちを打ち明けました。
「やめたい」と伝えた宮田さんに、母親は「あと1回行って、本当にイヤだったらやめていいよ」と返したそうです。
これが最後かもしれないと思って出かけたレッスンで、宮田さんに友達ができます。帰りにみんなで渋谷でごはんを食べることになり、「友だちだけでごはん食べることってなかったから、テンション上がりましたね」と振り返っています。
ところが、その帰り道に事件が起きます。1人だけ使う駅が違ったため道に迷い、人に道を聞きながら、半泣きで駅を目指したそうです。
「どうにか家に帰れて、もうすっかり最後かもってことなんか忘れて、お母さんに“ケータイほしいよ”って(笑)」。やめたい気持ちは、すっかり消えていました。宮田さんは「あの日、友だちができなかったら、ジャニーズにいる楽しさをわからないまま、やめてたかもしれないです」とも語っています。
無理に引き止めず、あと1回だけと促した母親の一言が、その後の道を決めたことになります。
中学時代の実家では、もうひとつ大きな出会いがありました。2020年10月のシネマトゥデイのインタビューによると、中学生のときに堂本光一さんの舞台『Endless SHOCK』にバックダンサーとして参加し、少し出演料をもらったそうです。「それで部屋にテレビを買って、深夜にアニメをやっていることを知り……。そこから夢中になっていきました(笑)!」。
もともとアニメ好きではあったようで、2023年12月のORICON NEWSのインタビューでは「同じアニメを何度も見て、セリフを全部記憶していたような子どもだったんです」と明かしています。自分の部屋のテレビが、のちの声優の仕事にまでつながっていきました。
冷蔵庫にあったポテトサラダ
高校生になると、帰りが遅くなる日が増えていきました。『Myojo』のインタビューで、宮田さんは当時の実家での出来事を明かしています。
「高校のころとか、家が遠かったんで、仕事場から家に帰ったら、12時過ぎちゃうこととかもよくあって。もう家族はみんな寝てる。なんでか、いっつも冷蔵庫に、お母さんが作ったポテトサラダが入ってて。よく、それ食べてましたね。ポテトサラダ、なんで、いっつもあったんだろ?」。
帰宅が深夜になった高校時代、実家の冷蔵庫にはいつも母親の作ったポテトサラダが入っていました。
インタビュアーに促されて、宮田さんはようやく気づきます。「……。えっ、もしかして、俺のためにいっつも作っといてくれたってことですか!?」。母親は何も言わずに、遅く帰る息子の食事を用意していたようです。
高校生活そのものは、楽しいことばかりではなかったようです。『Oggi』のインタビューでは、高校時代はすでにアイドルの仕事をしていたため、周りから「みんなとは違う」という目で見られていると感じていたと話しています。クラスのみんなが学園祭の準備をするなか、自分は仕事で参加できないと決まっていて、孤独を感じたこともあったそうです。
つらいときには、家族に弱音を吐くこともありました。それを母親はずっと気にかけていたといいます。
「“デビュー決まったよ”って報告したら、“おめでとう。ずっと申し訳ないと思ってた”みたいなこと話されました。俺はつらいとき家族に“もうヤダ”って言ってたりしたから。お母さん、自分の夢を背負わせて悪いなって思ってたらしくて」。
これに対して宮田さんは、こう続けています。「たしかに最初はお母さんの夢だったかもしれない。でも、途中からは俺の夢でもあった。だから、同じ夢を見てたっていうか」。
2011年8月10日のCDデビューは、入所から10年以上がたってからのことでした。その長い下積みを、実家の家族が静かに支えていたことが分かります。
大人になっても母と仲良し
デビュー後も、宮田さんと母親の仲の良さは変わりませんでした。
2021年2月19日に放送されたフジテレビ系『ダウンタウンなう』では、「僕、お母さんとすごく仲が良くて、お母さんのこと大好きなんですよ」と宣言しています。モデルプレスの記事によると、「いつでも会えるようにお母さんと近所に住んでいる」とも明かし、「これってマザコンですか?」と共演者に問いかけました。
東スポWEBによると、宮田さんは先輩の中居正広さんから普段からマザコンだと言われていると話していました。番組では、共演者から次々に質問が飛びました。
松本人志さんに「お母さんがパンチパーマあてなさいと言ったら?」と聞かれると、「一回やってみますね」と迷いなく回答。結婚相手を母親に反対されたらどうするかという質問には、「おかあさんが言ったことをやってきて、今まで間違いがあったこと一度もないんです」と言い切りました。
これには松本さんも「これは女子ウケはあまり良くないかもしれないな」と判定していたそうです。とはいえ、オーディションも、レッスンを続けたことも、母親の言葉がきっかけでした。その経験があるからこその答えなのかもしれません。
母親の話は、ふとした場面でも出てきます。2025年2月公開の『Oggi』の記事によると、取材前のあいさつで宮田さんは「子どものころにうちの母ちゃんが読んでたっす!家に置いてあった記憶がすごくあります。Oggiに出るよ!って母ちゃんに言っておきます」と話したそうです。母親が読んでいた雑誌が家に置いてあったという一言から、子供の頃の実家の様子がうかがえます。
仕事の報告を母親にする習慣は、大人になっても変わらなかったようです。一方で、父親や姉、弟については、デビュー後に本人が詳しく語った報道は、今回確認できた範囲では多くありませんでした。弟さんの話題が出た2026年3月のイベントは、家族の話が聞けた貴重な機会でした。
宮田俊哉の実家まとめ
宮田俊哉さんの実家と家族について、分かっていることをまとめます。
- 宮田俊哉さんは1988年9月14日生まれ、神奈川県出身
- 地元は神奈川県大和市と伝えられている
- 実家の町名や番地、家族の名前や仕事は公表されていない
- 家族は両親と姉、弟で、3人兄弟の真ん中
- 母親は堂本光一さんのファンで、小学6年生の終わり頃にオーディションへ連れて行った
- 「やめたい」と言ったときは、母親の「あと1回」の一言で続けることになった
- 高校時代、実家の冷蔵庫にはいつも母親のポテトサラダがあった
- お笑いコンビ・エバースの町田和樹さんは地元の後輩で、弟と同級生だった
母親の夢から始まった道は、やがて宮田俊哉さん自身の夢になりました。家族に支えられて歩んできた宮田さんの、これからの活躍にも注目です。

