村治佳織の病気は舌腫瘍!長期休養から吉永小百合の映画イベントで復帰するまで

村治佳織の病気は舌腫瘍!長期休養から吉永小百合の映画イベントで復帰するまで

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クラシックギタリストの村治佳織さんについて「病気」と調べると、長期休養のニュースを思い出す方も多いのではないでしょうか。

村治佳織さんが公表した病気は舌腫瘍で、2013年7月22日に長期休養を発表し、2014年9月に映画のイベントでステージへ戻りました。

それより前の2005年と2011年にも、右手の不調で演奏活動を休んだ時期があります。

この記事では、公式サイトの発表と本人のインタビューをもとに、病気と休養、復帰までの流れを時期ごとに整理します。

村治佳織の病気は舌腫瘍|公表日と休養・復帰の時期

  • 病気と休養の全体像
  • 2013年7月に舌腫瘍を公表
  • 休養中の報告と療養の終了
  • 復帰の舞台は映画のイベント
  • 病気の詳細を語らない理由

まずは、2013年に公表された病気と、休養から復帰までの流れを順に見ていきます。

病気と休養の全体像

村治佳織さんは1978年4月14日生まれ、東京都出身のクラシックギタリストです。幼い頃から父の村治昇さんにギターの手ほどきを受け、1993年にデビューアルバム『エスプレッシーヴォ』を発表しました。弟の村治奏一さんもギタリストです。

子供の頃からコンクールで結果を残し、1992年にはブローウェル国際ギター・コンクール(東京)と東京国際ギター・コンクールで優勝しました。1995年には第5回出光音楽賞を最年少で受賞しています。

1997年にはパリのエコール・ノルマルへ留学し、1999年の帰国後に本格的なソロ活動を始めました。2003年11月には英国の名門クラシックレーベル「デッカ」と、日本人として初めてのインターナショナル長期専属契約を結んでいます。1999年には伊藤園、2002年から2004年にはトヨタ自動車のCMにも出演し、クラシックの枠を超えて広く知られる存在になりました。

そんな村治さんが体の不調を理由に演奏を休んだ時期は、公式サイトや報道で確認できる範囲でいくつかあります。先に全体を一覧にしておきます。

公表した病名 舌腫瘍
公表した日 2013年7月22日(公式サイト)
医師の診断 「長期療養を要す」
療養期間の終了 2014年3月(公式サイトで報告)
ステージ復帰 2014年9月16日(映画のジャパンプレミア)
リサイタルの再開 2016年
それ以前の休養 2005年と2011年(右手の不調)
復帰後の休養 2022年に数か月(夏と秋の公演に出演せず)

産経新聞は2018年の記事で、村治さんが2005年から2014年までの足かけ10年にわたって休養と復帰を繰り返したと伝えています。なかでも休んだ期間が長く、病名が広く報じられたのが2013年の舌腫瘍でした。

このほか2022年にも、数か月の休養を取っています。右手の不調と舌腫瘍は別々の時期の出来事で、休んだ期間も重なっていません。それぞれ事情が違うため、ここからは発表ごとに分けて詳しく見ていきます。

2013年7月に舌腫瘍を公表

2013年7月22日、村治さんは公式サイトで、舌腫瘍のため長期休養に入ることを発表しました。ORICON NEWSやタワーレコードのニュースが、同じ日に報じています。

本人のコメントは次のとおりです。「この度、私 村治佳織は止む無く活動をお休みすることに致しました。今はじっくり体に休息の時間を与えることが、一番大事なことではないかとの思いに至ったからでございます」。

医師の診断は「長期療養を要す」というもので、予定していたすべての公演と活動が中止になりました。

所属事務所も「余儀なく全ての公演及び各種活動を中止することに致しました」と説明しています。村治さんは「多大なるご迷惑をおかけすることになりましたこと、伏してお詫び申し上げます」と、公演を待っていた人たちに謝罪しました。

そのうえで「しばしの間みなさまとはお会いできず残念ですが、しっかり療養したいと思っておりますので、どうかご理解を賜りますようお願い申し上げます」と結んでいます。

発表の直前まで、村治さんは忙しい日々を送っていました。2013年6月20日の公式メッセージには「6月はツアー、新作アルバムの準備、書籍に関わる仕事などなど大忙しの毎日です」と書かれています。

この年の2月にはベトナムで現地の交響楽団と共演しており、年末のメッセージでは、国内ツアーや中国、ベトナムでのコンサートがあった一年だったと振り返っています。国内外で公演を重ねていた、多忙な時期の休養だったことが分かります。

のちに読売新聞のインタビューで、村治さんは当時の気持ちをこう語りました。「それまでは、2年先のスケジュールも埋まっている状況でした」。そんなふうにずっと続いていくと思っていたので、「目の前が真っ暗になりました」といいます。

続けて「人生には予想もしないような、1ミリも希望していないことが起こるんだなと」とも話しています。1993年のデビューから20年の節目を迎える年の、突然の休養でした。

休養中の報告と療養の終了

休養に入ったあと、村治さんは公式サイトでほぼ毎月、近況を伝えるメッセージを書き続けました。発表から4週間後の2013年8月19日に、最初の報告が載っています。

「体のことを第一に考えて生活しています。おかげさまで順調な経過を辿っています」。コンサートや録音、ラジオといったギターを携えての活動は休みながらも、経過は順調だと伝える内容でした。

9月24日のメッセージでは「早いもので休養3ヶ月目に入りました」と書いています。秋のコンサートシーズンに各地へ出かけられないことを残念がりつつ、ゆったりとした生活を送っていると報告しました。主催者や、共演を予定していた演奏家へのお詫びの言葉も添えられています。

10月28日には、以前から興味のあった水泳を始めたことを明かしました。同じメッセージには、病気との向き合い方が伝わる一文があります。

「病に感謝できるようになったなら、すばらしいことだと思いますが私の中では、その気持ちが芽生えています」。続けて「何より大事なことは病を生み出さない体を保つことですね」とも書いています。

年が明けた2014年1月27日のメッセージでは、元日に「ひとり弾き初め」としてギターを弾いたことを報告しました。2月26日には、水泳で4種目とも泳げるようになったと書いています。

この日は、ベストアルバム『村治佳織ベスト~4 COMPOSERS』の発売日でもありました。ふだんなら雑誌の取材やテレビ、ラジオへの出演が続く時期ですが、そうした活動も休み、ブックレットに載せるコメントだけを書いたそうです。

病状そのものを細かく語ることはなく、日々の暮らしと感謝の気持ちを伝え続けた半年あまりでした。そして春、ひとつの区切りが訪れます。

2014年3月31日のメッセージで、村治さんは療養期間を終えて充電期間に入ったことを伝えました。

「おかげさまで、元気に春を迎えています」と書き出し、前年7月の休養のお知らせから毎月続けてきた経過報告を、状況が一段落したので終えると説明しています。活動休止の発表から約8か月後のことでした。

メッセージには「療養期間を終えて充電期間へ」という言葉があります。もともとこの年の4月からはコンサート活動を控え、それまでできなかったことに取り組んだり、活動のペースを少し変えたりしたいと考えていたそうです。

活動の再開については、「ひそやかにゆっくりと」という流れを選ぶと書いています。すぐに元のペースへ戻るのではなく、ひとりの人としての日々の生活を大切にするという考えでした。

同じメッセージには、病気と向き合う人へ向けた言葉もあります。「今、ご病気をされておられる方々、ご自分の持つ治癒力が最大限に活かされ、心の安らぎが保たれますように」。

その後、仕事は少しずつ動き始めます。村治さんがのちに書いたところによると、吉永小百合さん主演の映画『ふしぎな岬の物語』の打ち合わせに初めて参加したのは2014年2月で、5月には映画のための音楽を録音しました。

7月24日の近況報告では「療養期間を完全に終了し、今は充実した充電期間を過ごしています」と書いています。久しぶりの仕事については「いつも通りに集中してでき、とてもうれしかったです」と喜びをつづりました。

この報告では、充電期間中に一般男性と結婚したことも明かしています。なお、2019年に出したエッセイの中で、2018年に離婚したことを本人が公表しました。

復帰の舞台は映画のイベント

活動休止の発表からおよそ1年2か月後の2014年9月16日、村治さんはステージに戻ってきました。

場所は東京国際フォーラムで開かれた、映画『ふしぎな岬の物語』のジャパンプレミアです。村治さんはこの映画のメインテーマを担当しており、吉永小百合さんや阿部寛さんらが登壇した舞台で生演奏を披露しました。

映画ニュースのMOVIE WALKER PRESSは、舌腫瘍の治療のため休養していた村治さんが、約1年ぶりにステージに上がったと伝えています。

吉永さんに「私の大事な友達」と紹介された村治さんは、こうあいさつしました。「皆様にご声援をいただいて、小百合さんにも毎日毎日、パワーを送っていただいて、こうして戻ってくることができました」。

吉永さんは「お元気になって、この演奏を引き受けてくださった。私の方が感謝している。これからまたスタートですね」と声をかけています。村治さんは「またコツコツとマイペースで頑張っていきたい。この映画は、私の順調な経過と同じように進んでいった。私にとっての希望の光」と応えました。

休養中、吉永さんの存在は大きな支えだったようです。読売新聞のインタビューによると、吉永さんやそのマネジャーが「人生は長いんだから、数年仕事を休んでも大丈夫」と言ってくれたといいます。村治さんは「急がなくていいんだな」と思い、とことん休んだと振り返りました。

映画は2014年10月11日に公開され、村治さんは翌2015年2月27日、日本アカデミー賞の授賞式にも参加しました。公式メッセージでは、この映画に関わった約1年を振り返り、吉永さんをはじめ多くの人に世話になったと感謝を述べています。

2年後の2016年9月16日、村治さんは公式サイトにこの日の写真を載せ、活動休止のあと初めて大きな舞台に立った大切な日だったと書いています。

2018年に発売したデビュー25周年記念アルバムを『シネマ』と名づけ、映画音楽を集めたのも、このときの記憶があったからだと産経新聞が伝えました。再び歩み始めたときに縁のあった映画が、節目の作品のテーマになったのです。

病気の詳細を語らない理由

舌腫瘍という病名は公表されましたが、それ以上の詳しい病状は明かされていません。

腫瘍の性質や治療の内容について、村治さん本人や事務所は公表していません。

2013年7月の発表として報じられたのは、病名と、医師から長期の療養が必要と診断されたこと、公演と活動をすべて中止することでした。休養中の公式メッセージも、経過が順調であることと日々の暮らしぶりが中心です。

その理由を、村治さんは2021年の朝日新聞デジタルマガジンのインタビューで語っています。「病気の詳細は、今の自分なら語れるんですけれど、母が私の病気で本当に心を痛め、何を見ても思い出すから墓に入るまで話さないでくれと言われていて」。

続けて「それほどの苦しみを母に与えたので、約束を守って詳しくはお話ししないようにしています」と話しました。病気について多くを語らないのは、お母さんとの約束があるからなのです。

2018年の産経新聞の記事にも、病気の話はしたくないという村治さんの様子が書かれています。それでも記者に休養中のことを聞かれると、「辛くなかったです」と答えました。

「どんな時も前向きに生きていきたい。だから、あの頃も、これは、いい時間を過ごしているんだって思っていました」。演奏家になる前の生活はこんなふうだったと思いながら、毎日のんびり暮らしていたそうです。

前向きでいたことは、周りとの関係にも影響したようです。読売新聞のインタビューでは「自分自身が後ろ向きになりすぎていたら、周りもどう対応していいか分からなかったかもしれません」と振り返りました。ある程度前向きでいられたから、温かな手を差し伸べてくれる人がいたといいます。

インターネット上には、病状や治療について推測を交えて書いた記事も見られます。しかし、本人や事務所の発表、大手の報道で確認できるのはここまでです。

病名のほかに分かっているのは、休養と復帰の時期、そして本人が語った当時の気持ちです。この記事でも、公表されていない病状には触れません。

村治佳織の病気とその後|右手の不調と復帰後の演奏

  • 2005年と2011年の右手の不調
  • リサイタル再開は2016年
  • 大病を経て変わった演奏と心
  • 2022年にも数か月の休養
  • 村治佳織の病気まとめ

ここからは、舌腫瘍より前にあった休養と、復帰したあとの演奏活動を見ていきます。

2005年と2011年の右手の不調

舌腫瘍の公表より前にも、村治さんは右手の不調で演奏を休んでいます。時期の異なる別々の休養なので、分けて整理します。

1回目は2005年です。文藝春秋の連載記事によると、この年にあったコンサートの当日、突然右手が動かなくなりました。記事は右手の橈骨(とうこつ)神経麻痺と書き、人生で初めてギターを弾かない日々が続いたと伝えています。

弟の村治奏一さんは同じ記事で、姉について「病気になるまで突っ走るタイプだから」と語りました。幼い頃から練習熱心で、大人になってからは世界中を飛び回っていた姉の姿を振り返り、体からの「救難信号」だったのかもしれないと話しています。

公式プロフィールによると、村治さんは翌2006年1月にフランスのナント音楽祭に参加し、4月にはアメリカ西海岸で初めてのリサイタルツアーを行いました。

2回目は2011年の秋から2012年2月にかけてです。2011年12月9日の公式メッセージには、休み始めてから約1か月がたったことと、「少しずつではありますが、回復しています」という報告が載っています。

「ギターを弾きながらの調整はもう少し先になりそうです」「前回の経験を踏まえ、今回も焦らないようにしています」とも書かれていました。医師からは、ストレスのない生活を心がけるよう、診察のたびに言われていたそうです。

このメッセージには「演奏は出来なくても、今自分が頑張れることを頑張ろう、そのように思っております」という言葉もあります。

復帰は2012年2月19日、広島でのコンサートでした。直前のメッセージで「この3ヶ月、沢山の方々にご心配をおかけしました」と書き、復帰後には「おかげさまで、演奏活動を再開することができました」と報告しています。

2月27日の名古屋でのリサイタルのあとには、「「右手」も、しっかり動いてくれました」とつづりました。産経新聞は2018年の記事のプロフィール欄で、村治さんの右手の不調を「右手後骨間神経まひ」と記しています。

リサイタル再開は2016年

2014年9月にステージへ戻ったあとも、村治さんはすぐに元のペースへは戻しませんでした。

公式サイトによると、2014年10月から翌年3月にかけて長崎・五島列島を3回訪ね、その旅を伝えるテレビ番組が2015年4月に放送されました。2015年8月にはソウルで日韓国交正常化50周年の記念コンサートに出演し、久しぶりの海外公演も果たしています。

2016年4月27日には、東京の紀尾井ホールでチャリティコンサートに出演しました。村治さんは公式メッセージで「忘れられない感動があり、しばらく余韻に浸りました」と振り返っています。

ソロのリサイタルを再開したのは2016年で、同じ年の10月26日には新作アルバム『ラプソディー・ジャパン』も発売されました。

アルバムのプロモーションが始まった際、村治さんは公式サイトに「これも5年ぶりです」と書いています。収録曲のひとつ「バガモヨ~タンザニアにて」は、村治さん自身が2012年に作曲した曲です。朝日新聞デジタルマガジンのインタビューでは、5年ぶりに録音できる喜びを感じながら弾いたと語りました。

復帰までに時間をかけた理由も、同じインタビューで説明しています。「がんばれば、もっと早くリサイタルはできたと思います。でも、がんばらないことをがんばった、体を一番に考えて、ゆっくりとしたペースで一つひとつを確実に楽しんでいこうと強く思ったのです」。

休養の長さは、インタビューによって「1年ちょっと」とも「3年間」とも語られています。これは数え方の違いで、映画のイベントでステージに戻るまでが約1年2か月、リサイタルと新作アルバムで本格的に活動を再開するまでが約3年でした。

その後は、2018年9月19日にデビュー25周年を記念したアルバム『シネマ』を発売し、2019年12月にはサントリーホールの大ホールでソロリサイタルを開きました。文藝春秋の記事は、2000席の大ホールが満員になったと伝えています。

大病を経て変わった演奏と心

長い休養は、村治さんの演奏や仕事への向き合い方を変えました。本人がインタビューで語った変化を見ていきます。

ひとつは、演奏を終えたあとの時間の使い方です。休養前は2年先まで予定が入り、ひとつ終わるとすぐ次へ向かう日々でした。朝日新聞デジタルマガジンのインタビューで、村治さんは「余韻を楽しめるようになりました」と語っています。

休養のあとは、演奏会が終わってから1週間ほど思い出に浸る時間までを含めて、ひとつのコンサートと考える予定の組み方に変えました。

演奏そのものについては、「一つひとつの演奏精度を高めて、感謝して弾くことができるようになりました」と話しています。大病のあとは「まず体を大事にしたいので」と言えるようになり、やりたかったことを実現するきっかけになったそうです。

弾き方も変わりました。産経新聞の取材には、「手が届く範囲に、きれいな音を届けることを心がけるようになりました。常に力を抜いているような感じの弾き方」と説明しています。

それまで大切にしてきた「バランス」への考え方にも変化がありました。「大病になったらバランスとか言っていられないじゃないですか。まずは命、体なので」。バランスをいったん外した時間を持ったことで、情感を込めたいときには考えすぎずに弾けるようになったといいます。

心の持ち方については、読売新聞のインタビューが詳しく伝えています。村治さんは病気になる前から「ギタリストは自分の一部」と考えていました。

そのため休養中は、「ギタリストの自分はシャッターを下ろして、病気を治していく自分を大切にしようという方向にシフトできたんです」と振り返っています。この考え方はとても役に立ったので、思い悩んでいる人がいたら伝えたいとも話しました。

産経新聞には、こんな言葉も残っています。「ギターがないならないで、それなりに生きていけそうだ。人間って、そんなに弱くないんだな」。だからこそ、聴いてもらえる限りは懸命に、楽しみながら弾いていこうと決めたそうです。

2022年にも数か月の休養

復帰後の村治さんは、無理をせずに休むという選択もするようになりました。

2022年の夏と秋には、出演するはずだった公演への出演を取りやめました。同年12月18日、村治事務所は公式サイトにお知らせを出し、出演できなくなった公演の主催者や、代わりに演奏を引き受けた演奏家へのお礼を述べています。

このお知らせには、村治さんが健康な状態で、動画の撮影や非公開の場での演奏などの活動を再開したことも書かれていました。休んだ理由や病名は書かれていません。

翌2023年の読売新聞のインタビューで、村治さんは前の年に疲れを感じて数か月休養したと明かしました。

デビュー30周年という大事な年に休む事態を避けるためだったといいます。「休むと周りに迷惑をかけるかもしれない」と思いがちだとしたうえで、「一番大事なのは自分の体だと判断したんです」と話しました。そういう勇気も持てるようになったのかもしれない、とも語っています。

かつての休養の経験は、ほかの場面でも生きました。コロナ禍で予定が白紙になったときも、同じことをすでに経験していたので不安にならなかったそうです。「どんな経験も、向き合っていれば必ず役に立つと思いました」。

休養のあとも、演奏活動の記録は続きます。2023年10月18日には、ファン投票で選ばれた曲を収めたデビュー30周年記念のベストアルバム『Canon~オールタイム・ベスト』を発売しました。

2025年10月17日には、アルバム『エターナル・ファンタジー』も発売されました。舌腫瘍の公表から10年以上がたったあとも、村治さんは新しい録音を世に送り出してきたのです。

読売新聞のインタビューでは、体づくりについても話しています。「ギタリストはプチアスリート。小さな筋肉を細かく繊細に動かしていきます」。しなやかな筋肉をつけるためにヨガを続けていると明かし、「ギターはおばあちゃんになるまで弾いていたいです」という思いも語りました。

村治佳織の病気まとめ

村治佳織さんの病気について、分かっていることをまとめます。

  • 公表した病気は舌腫瘍で、2013年7月22日に公式サイトで長期休養を発表した
  • 医師の診断は「長期療養を要す」で、すべての公演と活動が中止になった
  • 2014年3月に療養期間を終え、同年9月16日に映画のジャパンプレミアでステージに復帰した
  • リサイタルの再開と、5年ぶりの新作アルバムの発売は2016年
  • 病気の詳細は、母親との約束があるため語っていない
  • 2005年と2011年にも、右手の不調で演奏活動を休んでいる
  • 2022年には数か月の休養を取り、「一番大事なのは自分の体」と判断したと語った
  • 大病のあとは、演奏の余韻まで楽しむ予定の組み方に変えた

何度かの休養を経ながら、村治さんはそのたびにステージへ戻ってきました。「がんばらないことをがんばった」という言葉どおり、体を第一にした歩みが、その後の演奏を支えています。

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