すきやばし次郎の小野禎一とは?カーレーサーを夢見た高校時代から赤坂での修業、父・二郎との関係まで

すきやばし次郎の小野禎一とは?カーレーサーを夢見た高校時代から赤坂での修業、父・二郎との関係まで

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銀座の鮨店「すきやばし次郎」で、父の小野二郎さんと並んでカウンターに立ってきた小野禎一さん。映画やオバマ大統領の来店で店の名前が世界に広まるなか、「二郎さんの長男」という紹介しか知らない方も多いのではないでしょうか。

小野禎一さんは1959年生まれの鮨職人で、高校時代はカーレーサーを目指していましたが、父の一言で料理の道に進み、赤坂の日本料理店での5年間の修業を経て父の店に入りました。

高校名などの学歴は、確認できた公式プロフィールや報道には書かれていません。

この記事では、本人のインタビューや東京都の広報サイト、報道をもとに、禎一さんの経歴と父との関係、鮨への考え方を整理します。

すきやばし次郎の小野禎一とは|生い立ちから修業時代まで

  • プロフィールと父・二郎の店
  • 高校時代の夢と鮨職人への転機

まずは、禎一さんのプロフィールと、鮨職人になるまでの歩みを順に見ていきます。

プロフィールと父・二郎の店

小野禎一さん(読みは「よしかず」)は、銀座の鮨店「すきやばし次郎」の本店で、父の小野二郎さんの跡を継いで鮨を握る鮨職人です。東京都の広報サイトでは、二郎さんの長男で店主として紹介されています。

生年月日と出身地は、毎日放送の番組サイトに載っているプロフィールで確認できました。1959年7月31日、大阪生まれです。東京都の広報サイトの紹介文も1959年生まれとなっていて、食い違いはありません。

確認できた基本情報を、先に表で整理しておきます。

生年月日・出身 1959年7月31日、大阪生まれ
父 小野二郎さん(すきやばし次郎の創業者)
高校時代の夢 カーレーサー
高校名・大学 校名は確認できなかった
鮨職人になるまで 赤坂の日本料理店で5年修業し、父の店へ
座右の銘 継続は力なり
禎一さんを描いた本 『「すきやばし次郎」小野禎一 父と私の60年』(根津孝子著)

二郎さんには、禎一さんのほかに2つ年下の次男の隆士さんがいます。隆士さんは六本木ヒルズの店を開店以来任されていると、ニューズウィーク日本版が伝えています。兄弟そろって、父と同じ鮨の道に進んだことになります。

禎一さんの歩みを知るには、父の二郎さんと店のはじまりも押さえておく必要があります。二郎さんは1925年生まれで、静岡県の出身です。幼い頃に親元を離れて料理店へ奉公に出たことが、職人としての出発点でした。

ニューズウィーク日本版によると、当時は一人で店の掃除をしてから学校に通う日々だったそうです。東京に移って修業を続けた後、二郎さんは1965年に、銀座の数寄屋橋の近くにあるビルの地下1階へ「すきやばし次郎」を開きました。

店名の由来も紹介されています。東京都の広報サイトによると、数寄屋橋交差点の近くだったことと、「二郎」より「次郎」のほうが看板として見栄えがよかったことが理由だそうです。二郎さん本人も「次郎の方が店の看板なんかに書いたとき、格好がいいでしょ」と話したと、ニューズウィーク日本版は書いています。

開店から8年後の1973年には、日本橋の百貨店に支店を出すなど、早い時期から一定の評判を得ていました。2007年には日本で初めて刊行されたミシュランガイドで三つ星を獲得し、その名は広く知られるようになります。二郎さんは2005年に「現代の名工」に選ばれ、2014年には黄綬褒章も受章しました。

1959年生まれの禎一さんは、こうした店の歩みのほぼすべてを、父のそばで見てきたことになります。

高校時代の夢と鮨職人への転機

名店の長男として生まれた禎一さんですが、最初から鮨職人になるつもりだったわけではありません。ニューズウィーク日本版によると、中学時代は「やんちゃ」で、あまり勉強もしなかったそうです。一方、2つ年下の隆士さんは、幼い頃から父の姿を見て「鮨職人になりたい」と言っていたと伝えられています。

禎一さんの高校生の頃の夢は、カーレーサーでした。東京都の広報サイトの取材では、次のように語っています。

「はじめから鮨職人になろうと思っていたわけではなく、高校生のころはカーレーサーを目指してライセンスも取得しました」。

禎一さんが鮨の世界に入るきっかけは、夢を打ち明けた父の「そんなものでメシが食えるか!」という一言でした。

毎日放送の番組サイトのプロフィールにも、同じ出来事が書かれています。カーレーサーになりたいという夢を父に伝えたところ、「そんなもので食えるわけがない」と一蹴されたという内容です。

父の反対の背景について、禎一さんはこう説明しています。「貧しい時代に育ち、幼いころ奉公に出された父にとっては、食べていけるよう手に職を持つことの大切さが骨身に染みていた。それに私は長男。やはり跡を継がせたいという思いもあったのでしょう」。ニューズウィーク日本版は、二郎さんが「自分の鮨を継いでほしい」と考えて息子を料理人にしたわけではなさそうだと伝えています。「手に職をつけておけば大丈夫」という考えが根にあったようです。

高校名や大学については、確認できた東京都の広報サイト、毎日放送のプロフィール、ニューズウィーク日本版の記事のどれにも校名が書かれていませんでした。ネット上には高校名を挙げる情報もありますが、出典が確認できないため、この記事では紹介しません。分かっているのは、高校卒業後に日本料理の修業へ進んだことです。

高校を卒業した禎一さんは、東京・赤坂の日本料理店で修業を始めました。毎日放送のプロフィールによると、期間は5年間です。東京都の広報サイトでは、父の二郎さんから修業を命じられたと語られています。

5年が過ぎたところで父に呼び戻され、鮨職人としての徹底した仕込みが始まりました。

父の店での修業は、決して甘いものではなかったようです。禎一さんは当時を、こう振り返っています。「店にはすでに何人か弟子がいましたが、私と弟に対して特に厳しかった。言葉で教えられることはなく、見て覚えろ、見て技を盗めと。怒鳴られることなど日常茶飯事」。

息子にこそ厳しくした理由も、後から分かったといいます。「弟子以上に厳しくしなければ弟子たちから『やはり親子だから甘いのだろう』と見られて示しがつかない。そんな親心があったのだと後に知りました」。

親子であっても、店の中では師匠と弟子です。ニューズウィーク日本版によると、禎一さんは店の多くを任されるようになっても、師匠と弟子という関係は変わらないと語っています。今の自分があるのは父がいたからだと、何度も繰り返しているそうです。

すきやばし次郎での小野禎一|父との関係と鮨への考え方

  • 父との関係と追いつけない思い
  • シャリと下準備へのこだわり
  • オバマ来店と書籍で知られた経緯
  • 小野禎一のすきやばし次郎まとめ

続いて、店での役割と父への思い、仕事に向き合う考え方を見ていきます。

父との関係と追いつけない思い

ニューズウィーク日本版は、父の二郎さんの傍らに立つのが長男の禎一さんだと紹介しています。ニュースサイトの2014年の記事も、禎一さんを実際に店を切り盛りする長男と呼びました。東京都の広報サイトでは、二郎さんの跡継ぎとして技を継承する、現店主と紹介されています。長く父の隣で握ってきた人が、店の中心を担う立場になったということです。

表に立つ立場になっても、禎一さんは黒子に徹する姿勢を隠していません。ニューズウィーク日本版は、書籍の中で「陽のあたるところは親父さんでいい」「一人でもわかってくれたらそれでいい」と語っていると紹介しています。一方で、いつか二郎さんがいなくなっても「すきやばし次郎の味は変わらないっていう自信もある」と、職人としての自負も口にしたそうです。

それでも、父に追いついたとは考えていません。東京都の広報サイトの取材では、次のように語りました。「今でも追いついていませんね。映画のタイトル通り、父はいかに美味しい鮨を出せるか夢に見るそうです。そしてそのアイデアを起きたらすぐに試す。私にはそんな経験などいまだありません」。

「私が1歩進んでも父は常に100歩、1000歩も先を歩いていますから」という言葉に、禎一さんの父への敬意がにじんでいます。

父から認められた場面もありました。禎一さんによると、二郎さんから、世界を見回してお前ほどできる鮨職人はいないだろうと褒められたそうです。ただ本人は、生涯、父に追いつくことはできないと思っているとも話しています。

心に刻んでいるのは、「昨日よりも今日、今日よりも明日、もっと美味しい鮨を握れ」という父の言葉だといいます。修業については、こう語っています。「職人の修業とは我慢を覚えること」。季節の魚はその季節にしか味わえず、「10年修行しても10回しか経験できない」からこそ、常に一生懸命考え、つらいことを我慢しながら修業する必要があるというのが、禎一さんの考えです。

後進を育てることにも力を入れています。店の弟子たちはみな独立を目指して修業に励んでおり、禎一さんは「そういう本物の鮨職人を育てていくこともこれからの目標です」と話しました。父から受け継いだものを、次の世代に渡す役割も担っているわけです。

シャリと下準備へのこだわり

禎一さんが東京都の広報サイトの取材で最も強調したのが、シャリへのこだわりです。「鮨とは基本的にご飯を食べていただくもの」と語り、最も大切にしているのはシャリの温度だといいます。

「だいたい40度、人肌に近いくらいで握れるように準備をします。それにネタを乗せ、箸で持っても崩れない程度に空気を含ませて軽く握る」。シャリの量も、年配の方や女性には食べやすいように少なめにするなど、客の様子を見ながら加減するそうです。

寿司と江戸前鮨の違いについても、分かりやすく説明しています。寿司は箱や木枠で押し抜いた押し寿司のことで、冷めても美味しく、関西が主流です。対して江戸前鮨は握りのことで、シャリに新鮮な魚介を乗せて握り、ハケで煮切り醤油をつけて出し、すぐに食べてもらうものだといいます。

シャリの味を決める酢も、父から受け継いだものです。二郎さんが調合にこだわり抜いて完成させた酢を、禎一さんは食品メーカーと協力して市販用に商品化し、今もバージョンアップを続けています。

魚の仕込みにも、独自の手間があります。たとえば鰹は、他店ではガスコンロやバーナーであぶるのが一般的なところを、二郎さんの代から店内でわらを使ってあぶっています。禎一さんは、わらで焼くと煙でいぶされて皮目の匂いが消え、ほんのり燻製の香りがすると説明しました。

禎一さんは「シャリにしろ魚介の仕込みにしろ、鮨職人の仕事の9割5分は下準備なのです」と言い切っています。

こうした技は、世界のシェフにも認められてきました。父の不在のときに来店した、スペインの「エル・ブジ」の料理長フェラン・アドリアさんや、フランス料理のジョエル・ロブションさんが、禎一さんの技を激賞したと紹介されています。

禎一さんは、銀座から本物の鮨の魅力を発信し続けたいという思いも強く持っているそうです。銀座は一流の店が多く、海外からも目や舌の肥えた人が集まる街だからだと語っています。

オバマ来店と書籍で知られた経緯

店と禎一さんが大きく報じられたのが、2014年4月のオバマ米大統領(当時)の来店です。国賓として来日し、安倍晋三首相(当時)とともに店を訪れたことが大きなニュースになりました。

ニューズウィーク日本版によると、オバマ氏は映画『二郎は鮨の夢を見る』を見ており、本人の希望で店での会食が決まったそうです。この映画は2011年に公開され、二郎さんを軸に、禎一さんや隆士さん、弟子たちの姿も映し出しました。映画をきっかけに海外の客も増え、ハリウッドスターなどの著名人が訪れるようになったとも伝えています。

来店の経緯は、2014年11月に日本外国特派員協会で開かれた会見で、主に禎一さんが説明しました。ニュースサイトの報道によると、来日の1週間前に首相官邸から打診があったそうです。店はすでに予約が入っていたため、いったんは断りましたが、官邸や外務省が閉店後でも構わないと粘ったため、閉店後の貸切営業を引き受けたといいます。

禎一さんは会見で、オバマ大統領には18貫を出し、「お出ししたものは全部召し上がっていただいた」と説明しました。

当時は「2貫しか食べなかった」「半分残した」といった報道もありました。禎一さんはこれらを強く否定しており、報道に反論したい様子だったと、ニュースサイトは伝えています。

禎一さんの半生は、2019年に出版された書籍にもまとめられています。『「すきやばし次郎」小野禎一 父と私の60年』で、著者はフリーライターの根津孝子さん、版元はCCCメディアハウスです。出版社のリリースによると、幼少時代の思い出から人生の岐路と選択、鮨職人という仕事、父・二郎さんとの関係までを、ありのままに語った半生記だと紹介されています。

リリースの冒頭に置かれた禎一さんの言葉が、座右の銘です。「座右の銘を聞かれたら、迷わず「継続は力なり」と答えます。なぜならば、私は小野二郎という人を一番近くでみてきましたから」。

座右の銘「継続は力なり」の理由を、禎一さんは父・二郎さんを一番近くで見てきたからだと語っています。

本のあとがきでは、「手を抜かず、一つひとつの仕事を毎日コツコツと繰り返し」と綴り、ここに仕事の良さや醍醐味があると書いたと、ニューズウィーク日本版が紹介しています。出版から1年後のインタビューでも、考えは変わっていませんでした。ビューティーミュージアムの取材に、禎一さんは仕事への意識は変わらず、「より美味しくしようってことだけだよ」と答えています。

また、人生を幼い頃から振り返る時間になったとして、「親の名を汚す仕事はできねぇなと初心にかえるいい時間だった」とも話しました。客から「やんちゃだったんですね」と言われることもあるそうです。

小野禎一のすきやばし次郎まとめ

小野禎一さんとすきやばし次郎について、確認できた範囲でまとめます。

  • 1959年7月31日、大阪生まれで、二郎さんの長男
  • 2つ年下の弟の隆士さんは、六本木ヒルズの店を任されている
  • 高校時代はカーレーサーを目指し、ライセンスも取得した
  • 父の「そんなものでメシが食えるか!」の一言で、料理の道へ進んだ
  • 高校卒業後、赤坂の日本料理店で5年修業し、父の店で鮨職人になった
  • 高校名や大学は、確認できた記事やプロフィールに書かれていない
  • 「仕事の9割5分は下準備」と語り、シャリの温度や仕込みにこだわる
  • 2014年にはオバマ大統領の来店について会見で説明した
  • 2019年に半生をまとめた書籍が出版され、座右の銘は「継続は力なり」

カーレーサーを夢見た少年が、父の背中を追う鮨職人になるまでの歩みは、父と子の師弟関係そのものでした。これからも、父から受け継いだ鮨と向き合い続ける姿に注目です。

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