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GLAYのボーカルとして知られるTERUさん(ラッパーのteruさんとは別人です)。若い頃が気になっている方は、函館でどんな少年だったのか、どうやってデビューにたどり着いたのかを知りたいのではないでしょうか。
TERUさんは函館で生まれ育ち、高校生のときに幼なじみのTAKUROさんとGLAYを結成し、最初はドラムを担当していました。
高校卒業を機に上京し、1994年5月25日にシングル『RAIN』でメジャーデビューしました。1999年7月には、幕張メッセの駐車場に20万人を集めるライブも開きました。
この記事では、本人の発言とGLAY公式サイト、大手報道で確認できた範囲で、少年時代から上京、デビュー、そして『徹子の部屋』で語った「若いころ」の本音までを整理します。
目次
TERUの若い頃|函館で育った少年時代とバンドを始めた高校時代
- 函館で生まれ育った少年時代
- 高校生で結成したバンド
- 高校時代に聴いていた音楽
まずは、函館で生まれてから、高校でバンドを始めるまでの時期です。
函館で生まれ育った少年時代
TERUさんは1971年6月8日生まれで、北海道函館市の出身です。若い頃の主な出来事を、先に一覧にしておきます。
| 少年時代 | 函館で生まれ育ち、本人は「野球少年」だったと語る |
| バンド結成 | 1988年、高校生のときに幼なじみのTAKUROさんとGLAYを結成 |
| 最初の担当 | ドラム。TAKUROさんの提案でボーカルに |
| 上京 | 1990年、高校卒業を機に東京へ活動の拠点を移す |
| メジャーデビュー | 1994年5月25日、シングル『RAIN』 |
| 20万人ライブ | 1999年7月31日、幕張メッセ駐車場 |
| 若いころの本音 | 『徹子の部屋』で「自分勝手でした」と振り返った |
少年時代の話は、本人の文章やインタビューで確認できたものだけを書いていきます。
TERUさんは2020年、自身の文章に「僕は1971年6月に函館で生まれた」と書きました。函館を舞台にした映画『函館珈琲』を観た感想で、映画の中で女性が歩く海沿いの小道が、「僕が生まれた家の前の小道」だったそうです。「胸に熱いものがこみ上げてくるのを感じた」と振り返っています。
名前の由来も、本人が明かしています。2022年2月、俳優の西郷輝彦さんの訃報を受けて、「僕の名前は母が西郷さんの大ファンなので文字は違いますが『照彦』と名付けられたと母から聞き、それがきっかけでお会いし、両親にもたくさん優しくしてくれて本当にありがとうございました」と書きました。本名の「照彦」は、西郷さんの名前にちなんでつけられたのです。
函館の夏祭りの思い出も語っています。函館港まつりの恒例イベント「いか踊り」を踊ったのは小学6年生が最後で、2024年7月の公式インタビューでは「中学校に入ったら恥ずかしくて並べなくて、高校生になったらおまつりにさえ行かなくなって、外れのところで皆でたむろして遊んでいる、みたいな」と話しました。思春期の少年らしい、少し照れくさい時期の話です。
それから35年以上たった2023年に実際に踊ってみると、「とてつもなく楽しくて」、「なんでお祭りを楽しまないで過ごしてきたんだろう?」と後悔したそうです。小学生の頃の函館についても、2025年8月の公式の対談で「僕が小学生の時、函館は元気な街だったんで、あの姿にまた近づけたいと思っています」と語りました。
函館市の穴澗海岸も、上京するまで慣れ親しんだ場所です。2024年5月25日に放送された『土曜はナニする!?』では、山里亮太さんとこの海岸を訪れ、TERUさんが「自分の原点」と語ったと紹介されました。函館で生まれ育ったTERUさんにとって、穴澗海岸は上京するまで慣れ親しんだ「自分の原点」の場所でした。
高校生で結成したバンド
GLAY公式サイトの年表によると、バンドの結成は1988年です。「当時、高校生だったTAKURO、TERUを中心にGLAYを結成」し、オリジナル曲を中心に地元の函館でライブ活動を行っていたと書かれています。
リーダーのTAKUROさんは、2020年8月のTOKYO FM「SCHOOL OF LOCK!」で、結成のきっかけを「オリジナルをやるバンドを作ろうと思って幼馴染のTERUを誘ってGLAYの原形ができました」と話しました。ふたりは幼なじみで、最初に声をかけたのはTAKUROさんだったことが分かります。
誘われたとき、TERUさんの担当はボーカルではなくドラムでした。TAKUROさんは「TERUは最初ドラムだったんですけど、後から歌がうまいということを知ったんです」と話しています。TAKUROさんが「ドラムを探して来るからTERUはボーカルをやったほうがいいよ」と声をかけたことで、TERUさんはボーカルになりました。
ただ、歌声に惚れて誘ったわけではなかったそうです。インタビュアーに「最初は歌声に惚れて、とかじゃなかったんですね」と聞かれたTAKUROさんは、「なかったですね」と答えています。
ドラムは人口の少ない楽器だった、とTAKUROさんは言います。「場所もとるしお金もかかるし、音もデカいってことで。でもTERUの部屋は、いくら音を出しても大丈夫な仕様になっていたので……」。TERUさんの家は、仲間のたまり場にもなっていたそうで、「夜中に遊びに行って、10人くらいで雑魚寝していましたね」という話も出ています。
バンドはその後、1989年にHISASHIさん、続いてJIROさんが加わって4人になりました。年表には、ライブ活動が小さな貸しホールを単独で満員にするほどになったとも書かれています。
メンバーの仲のよさについて、TAKUROさんは2025年6月の『GOETHE』のインタビューで「GLAYというバンドが、常に文化祭の準備をしているような感じだからでしょうね」と分析しています。ドーム公演やホールツアーが終わると、すぐに次の「文化祭」の準備に動きだすといい、「その繰り返しが本当に楽しいんです」とも話しました。
なお、TERUさんの出身高校の校名は、Wikipediaなどでは函館商業高等学校とされています。ただ、本人の発言やGLAY公式サイトの年表、プロフィールでは校名を確認できませんでした。この記事では「高校生のときに結成」という公式年表の範囲で書いています。
高校時代に聴いていた音楽
高校時代のTERUさんがどんな音楽を聴き、何を演奏していたのかも、本人が語っています。
2024年10月のORICON NEWSでは、バンドのコピーをしていた頃に、BOØWYのフレーズやプリプリ(プリンセス プリンセス)のギターソロを一生懸命練習していたと振り返りました。「そんな時があったなぁと」という言葉もあります。地元の函館でレコーディングをするようになり、「高校時代に戻ったような、バンドをやる楽しさをあらためて実感しています」とも話しています。
2024年9月の公式インタビューでは、2024年10月に発売されたアルバムの曲を聴くと、高校時代にカバーしていたデランジェの『LULLABY』を思い出すと明かしました。「聴くたびにあの時代にタイムリープするような錯覚を感じます」という言葉もあります。同じ曲は、GLAYが「まだ何者でもなかった当時の“あの感じ”」を特に思い出させてくれる、とも話しています。アルバム全体についても、「自分たちが高校、中学時代にポップから受けてきた刺激、ときめき」を、デビューから30年たってあらためて自分たちの手でつくり直す作品だと説明しました。
洋楽との思い出もあります。2024年5月の公式インタビューでは、QUEENと同じステージに立ったあとで、「高校時代、北海道でも実家が遠くて下宿していた友だちがいて、QUEENが大好きで」と思い出しました。友人の部屋に行くとQUEENばかり聴いていて、「俺、めちゃくちゃ聴いてたな」と気づいたそうです。
バンドを続ける姿勢にも、少年時代の気質がのぞきます。同じORICON NEWSで、TERUさんは「当時のロックバンドって、刹那こそが美学であるみたいな風潮があったんですよ」と話しました。自分たちはBOØWY世代で、絶頂期に解散するバンドの姿を目の当たりにしていたといいます。
それでもTERUさんは「僕は野球少年だったこともあって、昔から“継続は力なり”という言葉が好きなんです」と語り、GLAYの目標を「長く続けること」に置きました。周りから「え?」という顔をされることは「しょっちゅうありました」とのことです。
TERUの若い頃|上京からメジャーデビュー、20万人ライブまで
- 高校卒業と同時の上京
- 『RAIN』でメジャーデビュー
- デビュー後の若手時代
- 幕張の20万人ライブ
- 『徹子の部屋』で語った本音
- TERUの若い頃まとめ
ここからは、高校卒業後の上京から、デビューと大きなライブを経験した時期を順に見ていきます。
高校卒業と同時の上京
TERUさんは、2020年の自身の文章で「高校を卒業し、上京」と書いています。続けて「かれこれ30年以上も東京で暮らしている」とも記しました。
GLAY公式サイトの年表では、1990年の項に上京の経緯が載っています。高校卒業を機に、TERUさんはTAKUROさん、HISASHIさんの3人で活動の中心を函館から東京へ移しました。地元ではライブ活動が小さな貸しホールを単独で満員にするほどになっていて、上京後は都内と近郊のライブハウスを回っていたそうです。
1991年には、自主制作のカセットテープを3本発表し、瞬く間に完売しました。年表には、この頃に函館時代の後輩バンドのメンバーだったJIROさんが加入したとも書かれています。
上京にあたって、親と約束をしていたメンバーもいました。北海道新聞が1994年に書いた記事(GLAY公式サイトの年表に掲載)には、ベースのJIROさんの言葉として「親と3年だけの約束で上京」とあります。「きっちり3年目の5月」に『RAIN』でメジャーデビューしたと、同じ記事は伝えています。
故郷を離れた思いは、のちにTERUさん自身も語っています。2024年9月の公式インタビューで、楽曲『海峡の街にて』について「上京してくる時の切ない想いが思い出される曲になりましたね」と話しました。「函館に残してきた大好きな友だち、家族のことを思うし」とも語っています。
上京後は、函館へなかなか帰れない日々が続きました。TERUさんは「忙し過ぎて2年に1度しか函館に帰れなかった時期もある」と書いています。さらに「函館でライブをしない限りは年に1度も帰れない場所ではあった」と振り返りました。それでも函館への思いは「年々増す」ばかりで、「そんな函館がとても恋しくなる時がある」とも書いています。
上京後の住まいや、バイト先の具体的な場所は、本人の発言や公式の年表で確認できませんでした。ネット上にはさまざまな話がありますが、この記事では書きません。
『RAIN』でメジャーデビュー
転機は1993年10月でした。年表には、東京近郊のライブハウスで行われたGLAYのライブにYOSHIKIさんが訪れ、同じ日にエクスタシーレコードとの契約が決まったと書かれています。ここから、インディーズ1stアルバムのレコーディングが始まりました。
1994年2月1日には、目黒鹿鳴館で初のワンマンライブを開き、チケットはソールドアウトでした。その後ロサンゼルスへ渡り、YOSHIKIさんのプロデュースで『RAIN』を録音しています。
このロサンゼルス録音には裏話があります。HISASHIさんは2025年4月のフジテレビ『ぽかぽか』で、「YOSHIKIさんがなかなか家から出てこなくて」と明かしました。レコーディングが押し、HISASHIさんとJIROさんが先に帰国した一方で、TERUさんとTAKUROさんはYOSHIKIさんと一緒にロサンゼルスに残ったそうです。
日本では他のバンドとのツアーが組まれていましたが、GLAYだけメンバーがそろわず、会場でファンに謝ることになりました。デビュー前だったため事情を明かせず、「いろいろあって……日本にいなくて」と濁して説明したといいます。
1994年4月5日に目黒鹿鳴館で2日間のワンマンを開いたあと、5月25日に『RAIN』が発売されました。1994年5月25日、GLAYはシングル『RAIN』でメジャーデビューしました。映画『ヤマトタケル』の主題歌で、同じ日にインディーズのアルバム『灰とダイヤモンド』も発売されています。2日後の5月27日には、『ミュージック・ステーション』に初出演しました。6月15日には、2枚目のシングル『真夏の扉』も発売されています。
ロサンゼルスでの録音について、TERUさんは翌年のアルバム『SPEED POP』のセルフ・ライナーノーツで、『RAIN』を「これが最初で最後の海外レコーディング(笑)。LAらしいカラッとした音で、前の11曲とは違った空気感がありますね」と紹介しています。
デビュー時のTERUさんについて、北海道新聞は「力仕事(バイト)をしなくてよくなった」という言葉を伝えました。ライブハウスを回る日々のかたわら、力仕事のアルバイトをしていたことがうかがえます。
デビュー後の若手時代
デビューの翌年、TERUさんの活動はさらに広がりました。1995年3月1日にメジャー1stアルバム『SPEED POP』が出ると、同じ日に目黒鹿鳴館でシークレットライブを開いています。
その理由について、TERUさんは当時のインタビューで「レコーディング作業ばっかりやってるとフラストレーションがたまってくるんですよ。それで4月まで待てないなと思って、3月にやってしまおうと」と話しました。ライブハウスで演奏したい気持ちが、デビュー後も変わらなかったことが分かります。
同じアルバムのセルフ・ライナーノーツには、TERUさんの曲への思いも残っています。『ずっと2人で…』は「こだわりがありすぎて、TAKUROとオレが初めてぶつかった曲。今はお互い納得できる曲に消化しました」と書きました。『Life~遠い空の下で~』については「オレがいちばん好きな曲。無理しないで気持ちよく歌えて、自分ではいちばんきれいな声が出てると思います」と紹介しています。
1995年4月5日には、関東地区初のレギュラーラジオ番組「MUSIC PULSE on Tokyo Bay」が始まり、パーソナリティをTERUさんが務めました。毎週水曜日の25時から1時間の番組です。
1996年5月8日には、赤坂BLITZでオフィシャルファンクラブ「HAPPY SWING」の結成記念ライブが開かれました。1997年8月6日には、12枚目のシングル『HOWEVER』が発売されています。1998年3月には第35回ゴールデンアロー賞の音楽賞を受賞し、1999年2月からは全国4か所15公演のドームツアーで、75万人を動員しました。
この時期のGLAYの特徴を、TERUさんは2024年10月のORICON NEWSで「歌詞をちゃんと伝えられる。それがGLAYの良さだと思っています」と語っています。「僕たちがデビューした当時は、洋楽を起点にした言葉の発し方が多かった時代でもあります」とも振り返り、そのなかでGLAYというポップなバンドが生まれた、と説明しました。
幕張の20万人ライブ
デビューから5年後の1999年7月31日、GLAYは幕張メッセ駐車場の特設会場でライブを開きました。公式サイトによると、入場者数は20万人で、「日本音楽史上最大動員」です。開演は午後4時30分、終演は午後7時30分でした。
ファンクラブの会報には、TERUさんがその日のことを書いています。「リハーサル中は、本当に届くんだろうかって思ってたから、ずっと不安だったんだよ」。それでも本番では「三時間があっという間に過ぎてしまって、ステージを降りるのが嫌だったんだよなー」と振り返りました。
ライブを終えるとき、「みんなが無事帰ることができてこそ成功と呼べるんだ」という言葉を残し、ステージを降りたとも書いています。
後年のインタビューでも、TERUさんはこの日に触れています。2024年8月のRolling Stone Japanでは、「夢を追いかけるバンドマンとして、より多くの人たちの前でやりたい思いが形になったのが20万人ライブだったと思うんです」と話しました。実際にやってみて、「音が最後尾まで届かないなど、わかることもたくさんあって」と気づいたそうです。
ライブの翌日には、ニュースの空撮映像を見て驚いたといいます。「ニュースで空撮からの映像を見て、こんなに人いたの?! すごいことやったんだな!って、冷静に感じましたね」と語っています。
TERUさんは、20万人ライブのステージから見た光景を「この30年間で最も目に焼きついている景色」と語っています。2025年6月の『GOETHE』では、「あれは一生に一度、見られるかどうかの絶景。その瞬間を体感したことで、“歌うこと”に対する考え方が変わりました」と話しました。
この年の12月6日には、Zepp Tokyoでファンクラブ限定のライブ『THE MEN WHO SOLD THE WORLD (BOYS ONLY NIGHT)』を、TERUさんのプロデュースで開いています。12月31日には『Winter, again』で第41回日本レコード大賞を受賞し、同じ日に幕張メッセでカウントダウンライブも行いました。
HISASHIさんによると、このカウントダウンライブのあとに「GLAYをやめよう」とメンバーの間で決めていたそうです。理由として、HISASHIさんは「忙しすぎて、とにかくバンドをやっているよりも撮られている方が多くて」と話しています。
ところが、新年会でTERUさんが「ソロ考えてるんだよね」とギターを弾いて見せると、メンバーの間でコードをめぐるやり取りが始まりました。HISASHIさんは「GLAY始まったんですよ、また」と、2025年4月の『ぽかぽか』で当時を振り返っています。
『徹子の部屋』で語った本音
TERUさんが若い頃の自分を振り返った言葉として知られるのが、2025年4月25日に放送されたテレビ朝日系『徹子の部屋』での発言です。TERUさんの出演は1999年7月以来2度目で、番組では当時の映像も紹介されました。
サンスポの報道によると、TERUさんは「(若いころは)自分勝手でしたもんね」と昔を振り返り、両親にも若いころはあまり会いたくなかったと本音を見せました。毎日キレイも同じ場面を、「自分勝手でした」と振り返ったと伝えています。『徹子の部屋』でTERUさんは、若いころの自分を「自分勝手でした」と振り返りました。
この発言は、函館への思いが変わってきた流れの中で出たものです。TERUさんは、函館の実家のそばにレコーディングスタジオを造ったことをきっかけに帰郷が増え、函館の魅力を改めて感じるようになったと話しました。
ORICON NEWSによると、番組ではメンバー4人とも函館育ちであることも紹介されました。毎日キレイは、「今になって思うことですが、両親の愛情がやけにいとおしく感じる瞬間があって」というTERUさんの言葉を伝えています。若い頃を振り返ったうえで、感謝する気持ちが年々増えていると話したそうです。
上京後の暮らしぶりは、ほかのインタビューからも分かります。2024年9月の公式インタビューでは、スタジオができるまでを「函館に帰ってきてゆっくりすることもなかったんですよ。長くても3日とかで、1週間いることは滅多になかった」と振り返りました。2023年のBillboard JAPANでは、「それまでは両親と過ごす時間なんて(函館の)ライブの時に顔合わせるぐらいだったんですけど」と話しています。
母親への感謝についても、「なかなかそういう感謝の気持ちってちゃんと伝えられなかったなって思いもあって」と語り、その気持ちが2023年のEPに収録された『刻は波のように』につながったと明かしました。
TERUの若い頃まとめ
TERUさんの若い頃について、確認できたことをまとめます。
- 1971年6月8日に函館で生まれ、高校を卒業するまで函館で育った
- 「いか踊り」は小学6年生が最後で、中学・高校時代は祭りの外れで友達とたむろしていた
- 1988年、高校生のときに幼なじみのTAKUROさんとGLAYを結成し、最初の担当はドラムだった
- TAKUROさんの「ボーカルをやったほうがいいよ」という一言で、ボーカルになった
- 1990年、高校卒業を機にTAKUROさん、HISASHIさんと東京へ活動の拠点を移した
- 1994年5月25日、シングル『RAIN』でメジャーデビューした
- 1999年7月31日、幕張メッセ駐車場で20万人を前にステージに立った
- 『徹子の部屋』では、若いころの自分を「自分勝手でした」と振り返った
函館の少年が、高校で始めたバンドで上京し、デビューから大きなライブまで駆け抜けた時期が、TERUさんの若い頃でした。校名や上京後の暮らしなど、確認できなかった話は書かずにおきました。これからの活躍にも注目です。
